日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋箱崎町

町の移り変わり

箱崎町は北新堀町と共に一つの島のような形で中洲と霊岸島に挟まれた土地で、天正の江戸埋立の大工事の際、まず南部が埋めたてられたといわれています。江戸図として版行された地図で最も古い「寛永江戸図」には、すでに北新堀にあたる部分は町屋になっていて、北側に向井将監下屋敷、蔵ありと記し、また駿河大納言の蔵屋敷があった事を示しています。

種々変化はありましたが、戦後、昭和51年1月の町名地番の改正、住居表示実施により、箱崎町1・2・3・4丁目と北新堀町を合して箱崎町となったのが、現在の姿です。

江戸時代には、北新堀、永代橋西広小路、箱崎町1・2丁目のみの町地に分かれていました。

明治5年の大改正で、武家地にはじめて築地1・2・3・4丁目までの町名がつ、そうした点で箱崎町の方も、前橋古賀藩邸が箱崎3丁目になり、山内家邸が箱崎4丁目になったという形で箱崎町がまとめられました。

箱崎町の町名の由来は明らかでなく、筑紫箱崎の名をとったとか、箱池とか箱崎池とよぶ池の名にちなんで呼んだとも云われています。

江戸時代の大部分は武家地で、日本橋川下の新堀に添った北新堀町と、崩橋(後の箱崎橋)橋際に出来た箱崎町1丁目・2丁目があるにすぎず、維新後になって武家地が公収されて、箱崎町3丁目と4丁目が出来たといいます。こうした経過をたどって明治維新後次第に武家地から市街地、商工業地化が進んでいったのです。

箱崎町の概要

新永代町、北新堀町、箱崎町1〜4丁目の順に列記しましょう。

新永代町

新永代町は、永代橋架橋の際、橋添地の御船手屋敷の一部をさいて火除地とし、永代橋広小路とよばれましたが。明治維新の変化で、明治元年市街地となり町名がつき新永代町となった所です。

北新堀町

北新堀町は、新堀川北岸に出来た、寛永図にものっている古い町です。しかし、大商店は案外少なく、幕末嘉永の「諸問屋名前帳」によってみても、下り塩仲買の加田屋彦兵衛、徳島屋市郎兵衛、岡本屋又次郎の3店、新堀組荒物問屋の吉野屋伊兵衛などが眼につく程度です。(中央区30年史による)

町として主たる建物は永代橋詰の船見番所と御船蔵で、御船蔵は北新堀から箱崎3丁目にかけて設けられていて、明暦3年(1657)のことといいます。船見番所は北新堀川南端新堀河岸に明暦大火後の寛文5年(1665)に新設され、隅田川と新堀川を往来する船の見張所として大きな役割を果していたといいます。船見番所を通る際は、船の乗客は冠り物をとり、音曲などを止め、会釈をしながら通過するのが慣例になっていたという話です。

この北新堀町の南端には早くから深川へ渡る渡船があり、「深川の大渡し」と呼ばれて、人々に親しまれていたのですが、元禄11年(1698)永代橋が新に架橋されると、北新堀町の河岸通りは、急速に発展して賑やかになってきました。この新しい永代橋は赤穂浪士達が渡って、中央区の明石町にあった、かつての浅野家の邸の前を通って金杉から泉岳寺へと行ったことで有名です。

永代橋は、深川永代寺の富士講や富岡八幡宮の祭礼には、神輿や山車の渡御などで大変な賑わいを呈したのでしたが、明治になって明治27年市区改正の公布で、橋の位置を変じることになり、明治30年11月鉄橋になって出現すると、北新堀の河岸通りは全く淋しくなり、火の消えたようになってしまったと今も語り伝えられています。橋が2百米下流の方に移っただけで、街の賑わいが全く変ってしまったなど恐ろしい変化というべきでしょう。

この町に関して特記すべきは、明治初年の開拓使物産売捌所のことです。この建物はジョサイア・コンドル設計で、明治13年6月竣工、2階建煉瓦造りのベネチアン・ゴシック風とよばれた洒落た建物でしたが、開拓使がこの建物竣工後間もなく、15年2月には廃止されてしまった為、新しく日本金融機関の総元締として設立された日本銀行が使用することになり、16年4月26日開業式が行なわれ、今の場所に日本銀行が移転する明治29年4月まで、ここに日本銀行のあった事は是非知っておいていただきたい事です。

その後この建物は日本銀行の集会所として使用され、後には倉庫といった形で使用されたりしましたが、大正の大震災で廃虚となってしまったといいます。現在「日本銀行発祥の地」という記念碑が建っています。

北新堀という町、こうして日本橋経済の中枢的位置を占めていたのですが、日本銀行の移転と共に次第に官的色彩はなくなっていき、商工業の店の並ぶ町で、倉庫の多い町へと変っていったのです。

箱崎町1丁目

箱崎川沿いに古くからあった町で、町の区域はごく狭く、1番・2番とあっただけの町だったのですが、江戸時代、元禄から享保といった時代、紀文、紀伊国屋文左衛門と並び称された奈良茂:奈良屋茂左衛門の実弟、奈良屋安左衛門の蔵屋敷があり、元文5年(1740)に三井家が、この蔵屋敷を1万2千両で購入したといわれています。敷地内には18棟の河岸蔵と、い・ろ・は10棟、32戸前の倉庫が建ち並んでいたそうで、倉庫としては広大なもので、町方としては巨大な倉庫群だったということで、箱崎町一帯を一般に倉庫の町というのも、こうした巨大な倉庫群があったためともいわれています。(三井倉庫50年史参照)

箱崎町2丁目

享保18年(1733)3月、永久橋と箱崎町1丁目間の入堀を埋立てできた町で、天明5年(1785)にはこの新地裏の河岸付地が埋立てられ、永久河岸と呼ばれた所で、明治5年隣接した久世大和守の低地、御船手組屋敷などを併合して、町の区域が拡がったといいます。

箱崎町3丁目

延宝頃から享保にかけて朽木伊与守と松平伊豆守の低地だったが、宝永元年(1704)正月、朽木邸前から浜町へ渡る永久橋が架かり、邸地は宝暦10年以後、戸田采女正、土井大炊頭、松平伊与守の邸地となり、戸田の邸は後に田安家邸内に囲いこまれ、他の二邸は維新後開拓使用地となりました。明治5年の改正で箱崎町3丁目となったのですが、1番地があっただけで、坪数8千85坪あったといいます。後に農商務省の用地となり、年月はよくわかりませんが、東神倉庫の所有となり、大正3年(1914)9月三井倉庫箱崎支店の鉄筋コンクリート2階建倉庫が建設され、東京を代表する倉庫として大評判で、関東大震災まで、箱崎倉庫群の王者として君臨する建物だったという話です。

箱崎町4丁目

3丁目と共に武家地の公収で町地となった所で、延宝頃には堀田対馬守、阿部美作守の邸地でした。元禄以後は阿部豊後守の一手屋敷となり、延享3年(1764)には田安家の拝領屋敷となり、天保14年には隣地の戸田采女正の上げ屋敷を併合して1万7千坪余の大邸地となりました。庭園には田安家が箱崎八景とよぶ程のすばらしいものだったそうです。維新後ここを土佐の山内容堂が入、明治38年、土州橋を自費で架け、明治42年東京府に寄贈したのですが、この橋のため随分便利になったと評判でした。やがて名園もつぶされ、住宅や工場が建ち河岸にそった処に日本郵船の倉庫が建ち、全く町地として倉庫地帯と大きく変化をとげたのでした。

戦後の箱崎町

箱崎町の大きな変化は、昭和40年ごろから始まったといえます。首都高速道路六号線の建設に伴って箱崎川と浜町川が埋立てられた事です。

橋が名物のように架せられていたこの地区、2つの川の上にあった橋が埋立てで全部なくなってしまったことは、住んでいた人達の生活に大きな変化を与えました。

河川が平面道路に改造され、昭和47年7月1日には「高速道路の下に巨大なタ-ミナルバス発着場、駐車場などを持つ、超近代的な地下1階地上3階建ての、東京シティ・エアーターミナルが出現した。」(中央区30年史、上巻)のです。これにつれて、その後引続いて起工された箱崎インターチェンジと江東方面を結ぶ首都高速9号線の建設も着々と進行し、54年10月13日に開橋式が行なわれ、隅田川大橋と命名されました。橋は上下二層という珍しいもので、上が高速道路、下は一般的な橋という形で評判でした。

その後の東京シティ・エアーターミナルは成田空港の拡張と共に急速に海外旅行の中心のようになっていき、「箱崎」の名も東京どころか、全国に大いに知れ渡って、盛況を呈したのですが、その後各地から成田空港への航路が次第に開設されるようになって成田への玄関という役割も揺らいでいるというのが現況といえましょう。

(中央区文化財保護審議会会長 川崎房五郎)

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