今、東日本橋とよばれているのは両国橋一帯と神田川ぞいの柳橋などの一帯で、今は高層ビル街でもあり、一部に会社、商店のある町といってよいでしょう。戦災によって手ひどく打撃をうけ、すっかり街の姿が変わりました。
昭和46年4月の住居表示実施により、いろいろな町名を統一して、東日本橋1丁目から3丁目に分けたもので、古い町名が7つもなくなっているのです。
東日本橋とよばれている地域、昔は一口に両国とよばれた地域です。
まず東日本橋の昔を語るには、両国橋のことから話をはじめなくてはならないでしょう。
両国橋がかかってから、両国という地名ができていったといえます。
まず両国橋のことからはじめましょう。
両国橋
両国という呼び名、勿論両国橋がかかってからの名称です。
徳川幕府は、幕府転覆をねらう武士達が川向うから立ち上る危険を警戒して、初期には千住大橋から下流の隅田川には橋をかけさせませんでした。
それが明暦3年(1657)正月の大火に江戸中を焼きつくすほどの被害をうけて、浅草方面へ逃げようとした市民が浅草見附の門がとざされ、伝馬町の牢屋の囚人を救うため、一時にがしたのですが、それ等の囚人が浅草の方へ争って逃げたため米のうばわれることを恐れて、門をしめたといわれています。そのため、多くの市民が隅田川のふちまで逃げて来たのに、どうすることも出来ず、後から後からと逃げてくる人々に押されて、隅田川の中に押し出され、水死するもの数知れず、船さえ猛火で焼けてしまって、九万人もの死者を出したと云われています。
そこで復興に当った松平信綱は、万一の災害に備えて、それ迄の方針を改め、橋を架けることにし、万治2年(1658)の暮に、今の中央区側から隅田川側に、はじめて千住大橋下流に橋がかかりました。
千住大橋下流で一番大きな橋というので、大橋とよばれたのですが、誰というとなく、平安朝のころ在原の業平が東国に来て、「伊勢物語」の本を書いた時、武蔵の国と下総の国の間を流れる隅田川といったその言葉をとって、今は武蔵国でも、昔は武蔵と下総の間を隅田川が境に流れていた。だから両国の間を隅田川が流れていたことになる。
「それなら両国を結ぶ橋だ」「両国橋だ」ということで、多くの人々が両国橋とよび、これが橋の名になったといわれています。
中央区側の両国橋のすぐそばに、矢の倉とよぶ米蔵があったため、この辺は少しさびしい場所でしたが、明暦大火後、火除地となり、次第に両国橋近くが賑やかになっていくにつれ、矢の倉とを元禄11年移転してからの後の両国橋と、それ以前の両国橋とでは、両国橋のかけられていた位置に多少違うようです。
明暦大火後、両国橋の西側、中央区側に防火対策として火除地が出来、広小路とよばれましたが、ただ広場にしておく、空地にしておくのはもったいないと何とか見せ物などに使いたいと願い出るものがあり、そこから小屋がけなら許可するということで、盛り場になっていきました。
何しろこの両国広小路、随分いろいろな見せ物があって、ラクダや象まで見世物として出た位で、結構江戸の人々、鎖国だといわれた当時、オランダを通じて珍奇な動物が公開されていたのです。
どこからどんな人が集まってくるのか、毎日大変な賑わいを呈したといっています。勤番の各藩の武士も居れば、商店の人や職人もあり、地方から出て来たお江戸見物に来た人々も、大勢ここへ集って来た娯楽場でした。
両国といえば、何といっても納涼の花火大会、江戸は東京とかわっても、大変な人出で、江戸中の人が集ったとか、東京の人がわっと押し出すなどといつも話題になったものでした。
両国の川開きは、はじめは1日ではなく、5月28日から8月28日まで継続して川開きが行われ、その間、時々花火がうちあげられたといいます。享保18年(1733)打ちあげ花火が行われるようになったとする説が強いようです。打ちあげ花火は、横山町の鍵屋弥兵衛の店と両国広小路の玉屋市郎兵衛が請負って次第に技術を競うようになり、玉屋は橋の上流を、鍵屋橋は橋の下流を受持って、「満都の人気を集め」ていたのですが、玉屋は天保14年(1843)4月、将軍家斉日光社参の前夜自火で焼失、江戸構に処せられ、後に断絶、ついに鍵屋のみになったのでした。
しかし花火の人気は大変なもので、その費用も随分かかったといいますが、両国橋を中心とする船宿と料理茶屋がその費用を負担し、出金し、8割が船宿が支出するところときまっていたといいます。
横山町の名物花火店として残った玉屋を中心に明治以降花火は東京市民の大好評を得て毎年柳橋の料亭と船宿と共に、ここに大衆をあつめて光の祭典を催したのです。戦後は大きく変わって、町の様子も変わりました。各町々の様子、移り変わりをみていきましょう。
両国界隈
東日本橋地区
今の東日本橋とよばれている町、両国一帯の地域は昭和46年4月の住居表示実施によって、米沢町3丁目、若松町、薬研堀町、矢之倉町、村松町を合わせて、東日本橋1丁目とし、両国を東日本橋2丁目、橘町の大部分(一部が久松町として残りました。)を東日本橋3丁目とし、江戸時代から親しまれて来た古い町名が東日本橋に統一され、両国とよぶことも町名としてはなくなったのです。
その上昭和47年7月、船橋と東京駅を結ぶ国電が開通して東日本橋駅が出来たため東日本橋の地名が定着していきました。
東日本橋1丁目
村松町・矢ノ倉町・薬研堀町などが知られた町で、村松町は西本願寺の末寺が築地へ移った後、名主村松源六が開いた町といわれ、明暦大火後のことで、次第に賑やかになったのは元禄になったからとおい話です。なまくら刀を売る店がずらりと並んで、町人用の外装だけ立派な刀を売るので有名になり、「出来合いのたましい村松町で売り」などと川柳でもひやかされる商店の多い町でした。
矢ノ倉町は元禄11年(1698)まであった米蔵が移転、そのあと武家の邸宅となり大名屋敷がありましたが、明治になって薬研堀町に近い方は賑やかな商店街になっていきました。薬研堀町は米蔵への入堀でVの字形に堀が出来ていたので、薬研に似た形として名がついたといいます。明和8年(1771)堀の一部が埋立てられ町地となり、あとは殆ど武家地で医者が圧倒的に多く、医者町などとよばれました。ここは金比羅神社があり、不動尊が祀られ武家の信者が多かったので有名でした。天保の改革で一時本所に移り維新後再度旧地に戻ったという話で、毎月28日の縁日は賑やかですが、特に暮の27・28・29日の賑いは大変なものです。今もなお続いて賑わっています。
面白いことに薬研堀町が江戸時代医者町とよばれていたのに、後には七色とうがらしの店が有名で、明治以降大正へかけて、矢の倉に開院する医者が多く、むしろ矢の倉町の方が医者町とよぶにふさわしい町になったようです。
東日本橋2丁目
旧来の両国とよんだ町です。元柳町、新柳町、吉川町、米沢町、1、2、3丁目、薬研堀町、若松町など、全部または一部が含まれます。両国と両国橋の西側の町を一般的によんで、明暦大火後万治2年(1659)に橋がかかり、交通上繁華な地になりましたが、火事の多い江戸のこと、明暦大火で多くの死者を出したことに鑑みて二度と災害の悲劇をくりかえさぬ様にと各所に火除地を設けたのですが、両国にも中央区側に広小路が出来て、防火や避難に役立つ広場が設けられました。いつの間にかこの空地を利用して小屋がけで軽業や見世物小屋が並び、水茶屋、喰べ物見世、揚弓場などで江戸一番の賑やかな場所になっていきました。もっとも将軍舟遊の乗船場がすぐ近くにあるため、将軍お成りの日には全部取り払われ、将軍が帰還後は再び興業が許されるといった具合でしたが、その賑やかなこと、混雑ぶりは大変なもので、いろいろな本に出ているほどでした。河岸を新柳河岸とよび、明治の末頃には寄席の新柳亭があって評判だったといいます。
維新後は全く商店の並ぶ繁華な市街に変わって、面目一新した賑やかな商店街になっていったのです。
また米沢町は3町に分れ、多くは船宿の中心地で、両国の川開きや花火と共に忘れることの出来ぬ町で、船宿はいずれも二階があり、家人は階下に住み、客がくると2階に通して接待したといいます。
米沢町から元柳町にかけて船宿と共に有名な柳橋花街で、これが両国の景況を明治になって支えていたといえます。
米沢町で一言すべきは堀部安兵衛のことで、矢の蔵の米蔵が元禄11年(1698)築地に移ったあとが武家地や町地となり、米沢町の町名も出来たのですが、ここに堀部弥兵衛が娘の養子となった安兵衛と一緒に住んでいたことは「赤穂義人纂書」にのっています。よくわかりませんが、安兵衛が弥兵衛と一緒に米沢町に居住していたことを信ずる人は多くは次の文書によるようです。
堀部弥兵衛金丸親類書
妻、御当地米沢町に罷在候。
1、世伜 養子当24才 堀部安兵衛
1、娘 江戸米沢町に罷在候 右安兵衛妻
これが、どこまで信用出来るものかどうか、私にはよくわかりません。
なお、柳橋花街の発展は天保改革で門前仲町の芸者達が弾圧を逃れて、こちら側に次第に移る者があり、明治になって一層賑やかな花街に発展したといわれています。両国の花火と柳橋の料亭については、いろいろのエピソードが残されていますが、防潮堤などのため、ここで花火が見られないのは残念です。(中央区は戦後新しく晴海で花火を打ちあげる大会を催して居ります。)
東日本橋3丁目
古くは橘町とよばれた地域で、昭和46年4月の住居表示実施で現町名になったところです。江戸の初期には西本願寺の別院やその末寺があったところでした。この西本願寺別院は元和7年(1621)3月准如上人が創建したもので、江戸海岸御坊、更には浜町御坊とよばれたといいます。明暦の大火で堂宇は灰燼に帰し、築地に移転復興したのです。
その跡地は松平越前守の邸地となり、天和3年(1683)に邸地移転に伴って、町地になりました。西本願寺のあった頃、門前に立花を売る店が多かったので、町の名を橘町とつけたのだそうです。
よくわかりませんが、元禄のころの話では、商店ばかりでなく、住宅地もあって静かな町だったようで、菱川師宜が住んでいたとか、俳人松尾芭蕉もこの町に住んでいたなどという話もあります。
橘町といえば踊り子の町として有名でした。踊り子といえば、歌舞音曲で客をもてなし、寄合茶屋や船遊山の席へ出るもののことですが、橘町などの踊り子は、その容姿を売り物に売色を専門にする若い娘達で、随分風紀をみだしたといわれています。「裃の膝に踊り子腰をかけ」といった川柳が、その実態を示しています。
元禄もすぎ、享保ごろからは色々な店が出来て賑やかになっていったようです、橘町3丁目の大坂屋平六の店は、薬屋としては江戸中に知られた店だったようで、中でもズボウトウというせきやたんの薬は特に有名で、「平六がとこ、ずぼうとう能く売れる」などと川柳でも評判しています。
明治以降
明治になって、何よりも大きな変化は、見世物小屋などのずらりと並んだ小屋がけの娯楽街がなくなっていって、町屋に変化し、商店街になっていったことでした。市区改正などで市街地になりましたが、賑やかな町であったことはいろいろ語り伝えられています。
明治になってからの両国辺、江戸時代の小屋がけの遊び場、寄席や見世物や茶店などで、見ては食べ、或は芝居から落語や講談まであったという雑踏の場所、いや、らくだや象まで、世界の珍獣まで見られたという江戸随一のにぎやかな街も、次第に変わりました。何よりも商店が軒をつらねる市街に変っていったことです。
しかし昔の盛り場、ちゃんとした市街になっても全く賑やかさは変らず、どんどん発展していきました。
柳橋附近の花街の盛況と共に、両国辺の賑やかさは、市街の改正で、一層賑やかさを増したといえます。『中央区30年史』にも、次のようにのべています。
「明治時代、両国橋から浅草橋の間にかけて、元柳町・吉川町が三条の市街地を作って並んでいた。明治30年の市区改正で、両国橋詰から元柳町を貫いて柳原通りを経て昌平橋際に至る路線が、1等2級(幅員15間以上)と定められ、36年には神田橋方面から来る路面電車が開通し、地区は一層の賑やかさを増すのであった。」
こうして、両国界隈の中央区側はむしろ明治30年代頃でも、柳橋花街の発展と共にすばらしい活況を呈したといえます。
今明治32年に出た『新撰東京名所図会』によって当時に景況を見ましょう。
往時は、観物、辻講釈、百日芝居と甚だ雑踏の巷なりしも、近年旧態を一掃して、商家櫛比、殷賑の市街とはなりにき。米沢町には五臓円本舗大木口哲、横山錦柵が生命の親玉を始め売薬商の看板、四方商舗が和洋酒類缶詰、ならびて勧業場両国館、落語席の立花家、福本、新柳町に新柳亭あり、昼夜義太夫を聴かせ、生稲、千代川の料理、待合茶屋は柳橋に連なり、元柳町此辺は到処芸妓街にて、亀清楼柳光亭も近く、楼船にて遊客は浮れぬべし。吉川町には両国餅、同汁粉店は名代にて、紀文堂の煎餅、柳橋亭の天麩羅、松寿司と下戸も上戸も舌鼓せむ。金花館といへる観業場は、両国館と相対峙し、隣は大黒屋として新板ものを売出す絵草紙、さて浅草橋最寄には消防署派出の火見櫓は高く、両国郵便電話支局、いろは第八番の牛豚肉店、栽培せる柳樹数10株点綴する間、馬車鉄道は2条の鉄路を敷きて絶間なく往復し、又九段坂、本所緑町通ひの赤馬車は、両国橋際に停車して、本所行或は万世橋行と叫びて客を招き、大川端、橋の左右の袂には、大橋、吾妻橋行の隅田丸発着して、ここ3・4町の間、4通8達の街路として賑やかなり。夜間に及べば、数多の行商露店を張りて夜市を開く。
まだまだ両国橋附近の町々は随分賑やかな活気のある町でした。
大正から昭和にかけて、両国も次第に変化していったことや、特に戦後のビル・ビルと高層ビルの町になっていったのです。
(中央区文化財保護審議会会長 川崎房五郎)