日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋久松町

江戸時代の久松町とよばれた地域は武家地で、元年3年(1617)松平越前守邸が上地となり、邸跡に四辻が出来て、橘町が起立した時と同じ頃、年代は明確ではありませんが、本多豊前守邸跡(1・2番地辺という)が町屋となったといわれています。今の15・16番地辺で、それ以外の場所は明治まで武家地であったといいます。

久松町になったのは明治5年(1872)4月で、それ以前のことは明らかでなく、どんな状態だったのかもよく判りません。町名の由来は、『東京府志科』に、「この地はもと村松町の分地なれど」とあり、村松町から分かれた町とあります。村松町から分かれた町であったから、永く栄える意味で、凡らく久松とつけたのだろうとも云われていますが、正確にはよく判りません。武家屋敷の並ぶところに町屋があり、かなりの数の商店があって、その多くの店が刀剣などを売る店でした。それもごく安い新刀を売る店で、脇差などを主として売り、武家の使用人などの使う木刀を売る店も多かったという話です。

大小の形をした木刀などは、ほとんどここへ買いにきたようです。武家屋敷にまじって、そうしたものを売る店などがあった町といった方がよいでしょう。

ここのかなりな部分を占めていた小笠原邸は維新の際に越前勝山藩邸となり、明治4年にはまた小笠原邸と囚獄司用地となり、のち、警視庁用地や敷地となって、種々異動があったようです。

品川県門訴事件について

僅かの間ですが、明治初年、旧江戸の周辺の3人の代官の支配した幕府領の土地は、そのまま3つの県となり、品川県、大宮県(浦和県)、小菅県となりました 日本橋・京橋などの区の外側には品川県が出来たのです。

品川県は県庁をどこにするかという時、一番大きい建物のあるのは品川の東海寺だ、それなら東海寺を県庁らしく立て直すべきだなどとの意見が強く、それを立て直すうち、臨時に品川県事務所を設けて、そこで、とりあえず事務をとる事になり、その臨時の事務所になったのです。この品川県事務所は、のちの明治座のはすかいあたりにあった旧小笠原弥八郎の屋敷跡を借りたもので、これが品川県門訴事件の起こった場所です。

この3つの県は、明治4年の廃藩置県でなくなってしまい、東京府の15区の外側の区として府にとりこまれるのですが、ここで、その品川県でおこった事件の話をします。

どうも品川県・小菅県・大宮県という名称は布告の前にきまっていたようで、布告が翌年正月から2月にわたって行われる前に3県の印章があらかじめ作られていたといわれています。

このうち『明治史要』によると、明治2年2月9日武蔵知県事古賀定雄を品川県知事に、武蔵知県事宮原忠英を大宮県知事に任命したとあります。大宮県は間もなく2年9月19日浦和県となり、浦和に県庁が置かれました。一番早く布告されたのは小菅県で、明治2年正月13日武蔵知県事河瀬秀治が小菅県知事に任ぜられています。

この3県成立当初は、日本中が全国的飢饉に見舞われ、維新政府としても、新しい首都東京の周辺県に食糧不足や市民の不安が高まれば、由々しい問題となります。2年8月25日には節倹の詔書を出し、諸官省の役人達も、給料の内から割り当てで救恤のための金を出すことを定めるなど、対策に苦心したようです。

8月25日、とりあえず東京府に3千石の救助米を毎月下附する旨を伝えるなど種々の手を打っています。11月には酒造免許高の3分の1の醸造を許可したり12月8日には天災窮民措置を定めるなどの対策を行いました。

また、年末の26日には全官庁職員に官禄の幾分かを返上する様令し、それを救助資金に充てるといった非常手段をとるなど、国をあげて救済策に苦心したようです。この結果、一番問題にされたのが、各町村を通じての備荒貯蓄でした。その貯穀高から品川県で大きな問題が起こったのです。

しかし、古くからの村々と違い、新田開発につとめる農村にとっては大きな打撃で、ことに品川県では米を出させて貯穀するのではなく、米1斗1円の割で、金納させました。その金を積み立てて凶荒に備えるという方針をとり、土地を持たぬ人々からは、上は3升、中は2升、下は1升といった具合で、あく迄も金納という令でした。これは、武蔵野・小金井・一帯の新田の村々、野中、南野中、上保谷、大沼田、内藤、保谷、鈴木、梶野、高木、関野、戸倉、関前等の新田12か村の村々の人達が、到底こんな苛酷な割り当てでは、いくら自分達のために万一の凶作に備えるための貯穀代でも、到底納める事は出来ない。何とか考え直してほしいと大騒ぎになったのです。その結果、ついに新田の人達だけが相談して、その窮状を県庁に訴え出ようということになりました。

しかし、県知事の古賀は、県庁を大きな建物にして、その偉容を示したいという気持が強かったらしく、米1斗1円の割りで、あく迄金納を命じました。その間、臨時に設ける品川県の事務所として、それ迄品川宿と関係の深かった平林九兵衛などの斡旋があって、旧小笠原弥八郎の屋敷跡を借りて、そこで品川県の事務をとることになりました。これが俗にいう「浜町の品川県事務所」です。

武蔵野新田12か村の人々は、明治3年1月10日の夕刻から蓑笠姿で、各自柄物をもち、名主を先頭に3百余名が閧の声をあげて中野方面めがけて押し出したのです。

はじめは武蔵野新田12か村の人々も田無新田の村人達も、歎願、又歎願と、何度か歎願の交渉の末、特に困窮の農民は出穀を免除する。それ以外の農民達で出穀することで妥協が成立していました。一時は出張した役人の指示で7石2斗8升余の割りあてを3分の1に減らし、2石5斗7升分を金で出穀して積み立てればよいときまりました。ところが古賀知事はこれに大不満で、この案を拒否し、とりきめた県の役人を首にするといった挙に出たため、田無新田はここで脱落し、武蔵野新田の人々だけが押しよせる事になったのです。この事件については『武蔵野市史』が詳細に史料をのせています。

農民の押し寄せるのを聞いた中野、角筈、柏木などの名主達は、淀橋で何とか食いとめようと努力し、橋のたもとに鳶の者を集め、梯子をいくつも倒して往来をさえぎりました。押し寄せた農民達は、ここで他の村の人々と争っても仕方がない、多くは中止の態度をとったのですが、一部の百人ばかりの人々が、雑司ヶ谷から高田馬場方面に迂回して浜松町方面に向かった事を、新宿の名手高松喜六の通知で知った品川県事務所の人々には、農民たちが門内に入れば強訴で処罰できる、何とか門内に入れようとしたのですが、農民達はこれを充分知っていました。門外で騒いでいるうち、ついに乱闘になり、県庁側の役人が鎌で腹をえぐられる事件がおこり、大混乱となったのです。一揆ということで、武蔵野新田12か村の名主の多くが捕えられ、逃げた村人たちも後に捕縛される者が相つぎました。この事件では一般農民の処罰が、死罪などを出さないように取り計らわれたなどと、当時の資料に見えます。むしろ村役人に重い処罰を加えたのは、明治になったばかりで、庶民感情を考慮した点もあったという説もあります。

何にしても、久松町で、こうした大きな事件があったことは、ぜひ知っておいてもらいたい事です。

ただ一言しておきたいのは、事件の大きさのかげで、各村の農民達が積金として出したものが、明治12年ごろ以降、小学校教育という明治政府の大事業を行っていくため、小学校舎の建設費に利用され、大きな効果をあげた事です。一部の土地の事かも知れませんが、東京府や埼玉県などで、それらしい文書を見受けることが出来ます。

僅か4・5年にすぎませんが、明治初年、品川県という県の県庁ともいうべき品川県事務所がここに置かれた事は、知る人も少なくなってしまいましたので、特記すべき事と云えます。

明治時代の久松町

江戸末期頃の久松町は、問屋の街にかこまれてはいましたが、どうも小商売の店が多かったようで、幕末嘉永年間(1848〜54)の諸問屋再興の時の記録でも、薪炭仲買が1軒記されているだけで、そんなに商店街というほどの町ではなかったようです。残念ながらどんな店があったのかよくわかりません。

明治初年でも人口500人たらずの町、袋物の製造販売で知られた町と云った方がよいかもしれません。何しろ維新後に出来た明治座のあったことで一般には知られていました。

今『東京府志科』によって久松町の状況をみると、明治2年の概況がよくわかります。

久松町 此地ハモト村松町ノ分地ナレトモ、其年代詳カナラス。明治5年士地及び華族稲葉正善・小笠原長守二邸ヲ此町ヘ合併ス。

[土地] 形勢 西ノ方浜町堀ニ接シ、平坦ニシテ低シ、地積(マゝ)
[戸口] 戸数 135戸(中略)
人口 473人 内男233人、女240人、
寄留 251人、内男154人 女97人、
[小学] 久松学校 明治6年7月創建ス、華族久松定謨ノ献金ヲ資本トシテ新築セシカバ、
其姓ヲ取ッテ校名トセリ、
[馬車] 車 人力車5輛 荷車1輛 小車1輛 馬2匹、
[物産] 袋物 製造高4,680箇 価2,340円、

その後の発展は、武家屋敷がまだ明治になっても残っていましたから、久松町となって、町人の町のような形が出来ても、武家地が、かなり残っていたことは言う迄もない事です。明治10年頃から、西南戦争の終わったのを契機に、東京も明治政府の中心として急速に発展していきました。それは云う迄もなく、明治天皇の東幸によって、事実上新しい東京が日本の首都になったことによります。

しかし、明治に入っての久松町は、全く昔の面影を残した町のように、いろいろの会社や商店が諸問屋と一緒に共存していった町と云えます。

明治30年代の様子を伝える『新撰東京名所図会』にしても、その状況はパッと発展するといった様子はなく、ジリジリと少しずつ開けていった町というベきでしょう。町内の橋としては、久松橋、小川橋、高砂橋、栄橋のあったことを伝えるほか、特別にどうという町でなく、明治座と茶屋五軒が大きな存在だったようです。

商業も別にとりたてるほどの事もなく、次にのべる程度で、活版印刷業の有交会、洋品商上野屋、呉服商額田善兵衛支店、旅館八木精一店、土井洋傘店、絹屋古着店、今井呉服店、野沢器械打綿店、中林洋毛織物店、藤村太物店、加藤太物店、そのほか明治座の「芝居茶屋」中村屋、山本、いつみや、尾張屋、武蔵屋があったことを『新撰東京名所図会』がのせています。

昔は劇場へ芝居を見に行くのに、土地によっては、多くの観客のための茶屋と云うものがありました。そこを通して、座席をとってもらい、飲み食いもそこで行いました。幕があく時になると枡席といってわくの中に何人か座って見物します。また見物人が役者との交流に宴会もするといった茶屋制度が設けられていたのです。

のちにのべる明治座にも5軒の茶屋があったと記していますが、そうした茶屋を利用していろいろの商談なども行われる便利な仕組みが出来ていました。また、時には大きな事件に関係するようなこともありました。芝居には、一般の人は勿論、自分で切符を買って入るのですが、茶屋制度を利用する人も相当あったようです。

ついで明治30年代の町の状況は、「南は浜町2丁目に、東は同1・2丁目及村松町に隣り、北は同村松町と橘町1丁目に境し、西は浜町川に沿えり」と『風俗画報』にあります。

概況としては、北部は商店が軒をつらねていて、南部には劇場があり、中部には官署、学校(市立久松小学校)があり、日本橋警察署がある。神社として胡桃下稲荷(紋三郎稲荷ともいう)があるとのべています。神社は常陸笠間の藩主牧野氏が安政6年(1859)浜町2丁目の邸内社として祀ったのを、明治5年(1872)に今の地に移したと記しています。また、概況として小川橋通りは市区改正で道幅が拡がり、西は親父橋に到り、東は大川端に達するとのべています。明治三十年代の姿です。

ただ、ここで一言しなくてはならないのは、明治以降の市街の発展に伴って、東京市が市中に電車を走らせる計画が出来、小川橋通りは市区改正で、道幅3等(10間)と定められたうえ、明治29年から33年にかけて工事が進行していきました。この拡張工事で、浪花町から浜町大川端まで大体完成し、明治36年12月には、東京市街鉄道路線が開設されました。この路線開通は、久松町一帯に大きな変化を与えました。

明治座

ここで、明治座について一言しなくてはならないでしょう。

明治・大正・昭和、いや平成の今も明治座はありますが、町の区域の変化があって、町名に変転もあり、ややこしい点もあります。しかし、一応、久松町といえば明治座と云う江戸っ子のかなりの人々がまだ居る限り、かつては市川左団次の大活躍をした時代、二世左団次の新しい歌舞伎と共に「久松町の明治座」という言葉は残っていくものと思います。

明治座について明治時代の記事で一番簡潔なのは明治30年代の『新撰東京名所図会』の記事です。

●明治座

旧幕府時代、両国広小路にありて、薦張の芝居なりを、明治5年に及びて、取締を命ぜられしより、同6年4月28日、久松町37番地へ、劇場建設の許可を得て、喜昇座と称して開場せり。同12年6月久松座と改め、建築を改良せし故、同年8月23日を以て大劇場の部に入る。同13年火災に類焼し、浜町2丁目に仮小屋を造り、同16年5月迄興行したるが、同年12月24日元地へ建築の許可を得たるが、工事中暴風雨の為に吹倒され、17年12月落成して千歳座と改称し、翌年1月4日開場式を行ふ。当時の建物は、間口18間、奥行27間の塗家なりしが、同22年、場中より出火して再び焼失し、遂に現今の建物を新築したるなり。其の建築中一時日本橋座と改めたる事もありしが、同26年11月落成して、明治座と改称せり。とあります。初代左団次の活躍していた時代です。二代目左団次はまだ一般の人々からは珍しがられた新演劇の道を切り開き、小山内薫達と共に、新しい演劇発展に努力して多くのファンを歌舞伎とは違った意味で引きつけたのです。

明治座は、特に二代目左団次と結びついて、大正・昭和と多くの劇作家のものを取り上げて上演したことでも知られています。勿論、二世左団次の新しい演劇は明治座ばかりでなく、歌舞伎座などでも上演されたのですが、やはり、多くのファンは先代左団次と二世代団次の牙城のように明治座を見ていた事はたしかです。「鳥辺山心中」「新宿夜話」「権三と助十」など岡本綺堂のものや小山内薫のものなど、新歌舞伎劇といわれる演劇がどんどん上演され、二世左団次といえば、そうした新しい時代物と云うほどになっていったのです。

しかし、二世左団次亡きあとは、明治座は次第に木挽町の歌舞伎座、東劇、あるいは有楽町を中心として東宝劇場などの賑わいにおされて、賑わなくなっていきました。

明治座について特記すべきは火災焼失のことでしょう。

明治座は明治13年2月4日、久松座時代に類焼し、更に23年5月6日千歳座時代に失火で焼失、大正12年9月の関東大震災での焼失、昭和20年3月10日の大空襲での焼失、それに昭和32年4月2日失火焼失と5回の焼失にみまわれました。大劇場として、江戸時代はともかく、明治以降で、この様に焼失をくりかえしたのは、都市東京における出来事として大きな事件として記憶されるべき事と云えましょう。

昭和20年3月9日・10日の大空襲は、東京に大打撃を与えたのですが、明治座も焼失したことは云う迄もありません。復興で東京が活況を呈するに至った24年、明治座も11月復興に着手、25年12月海老蔵(団十郎)、羽左衛門などで、「忠臣蔵」を晝の部、夜の部での通し上演で大好評を得ました。それ以降、順調に多くのファンを集めていったのですが、昭和32年4月2日、また、出火で焼失。直ちに復興にかかり、33年2月竣工、3月の新派の一座で開演、多くの観客をよぶようになったのです。こうして明治座は浜町・久松町一帯の人々と共に歩み、平成5年に新しく再建されて美しい姿を見せ、芝居好きの人々を喜ばせています。

山伏の井戸

もう一つ久松町でつけ加えるのは、山伏の井戸の事跡です。

俗に久松町の町裏35番地に、かって、名高い山伏の井戸とよばれる井戸があったのです。よくこの辺の地名として用いられる程に有名だったということですが、どうもよく判明しません。『江戸総鹿子』六に「元矢の御蔵若松町より西手、堀長門守殿御屋敷後通りニ在り」と記し、『江戸図解集覧』にも「今按ズルニ、従来ノ曲り角辻番ノ向ニ在ル廃井ナリ。昔山伏来リテ此井ノ水ヲ封ス。因テ廃井トス。」とあります。市民の間に歯痛に効験があるなどといわれ、信仰の方で有名になり、井戸が廃井になって蓋がしてあったのを、上に塩と楊枝をあげて拝む人が絶えなかったなどという伝説も残っていて、この井戸は評判でした。しかし後には、井戸の水が悪水となり汲む人もなく、明治15年に取り潰してしまって、今は場所さえも明らかでありません。江戸時代は地名の代りになるほど知られていたという話すら知る人も少なくなってしまいました。

(中央区文化財保護審議会会長 川崎房五郎)

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