日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋本石町

諸問屋の町

本石町は江戸開府と共に、江戸で最初の町割りが行われた所と云われています。いわば江戸の城下町としての基礎をなす場所です。また、金貨を鋳造する金座が置かれた所として有名で、江戸でも特別の町でした。本石町2丁目と3丁目の間の通りには「本町通り」の称があって「将軍御成り」といった時の通過路であり、しきたりのやかましい場所でした。また、1丁目、2丁目は特に呉服商業地区として指定された地域で、いわば江戸で一番という商業を営む人々にとってあこがれの場所だったのです。

格式の高かったことは有名で、江戸の豪商の集まる場所でもあったのです。町名の由来も、江戸初期に諸国の米問屋が多く集まった町である所から本石町と名づけられたと伝えられています。江戸末期には、地廻り米問屋として小原屋清兵衛、中村屋治助、若狭屋和吉、玉屋新兵衛の名が『諸問屋名前帳』にあります。ほかに大問屋も多く、春米屋4軒。薪炭問屋2軒、炭薪仲買5軒、板木屋2軒、両替屋2軒などがあったようです。

江戸の商業は関西、特に伊勢や近江の商人に負う所の大きいことは云う迄もありません。そこに諸問屋活躍の舞台が広がっていきました。日本橋一帯には大通りばかりではなく、その裏通りなどにも問屋という大きな商業界を左右する店々が並んでいて、一般の商店とは別に多くの店員をかかえて、活躍していました。10人二20人などと一口にいいますが、主人はそうした店員と一緒の生活です。しかも3食、おかず付きで食べさせます。そのための人員も必要です。どんなに問屋の主人や商店の主人たちが、経営上大変だったかがわかりましょう。番頭という店の事務をやる頭分の人に仕事を任せる面があったにしても、大変でした。

その上、商売上の事ばかりでなく、町としてのいろいろな「つきあい」というものがあり、宴会なども必要でした。「問屋の主人は苦労人」という言葉、苦労しなくては店が発展しないのです。その諸問屋の集中する日本橋一帯、本町、馬喰町、大伝馬町、小伝馬町などと共に、本石町も大きな力を占める諸問屋の店々のあった所で、江戸商家の基礎を築いたといわれているほどの賑わいでした。諸問屋が並び、江戸商業の中心を占めるといっても過言でなく、家屋も明暦の大火で復興してからは、たいてい塗屋土蔵造りで、白壁のつらなる町の偉容を示していたといわれていました。昭和7年9月布告の町名変更、区画整理で、大きく町の範囲が変化し、混乱しました。それでも現在でも本石町1〜4丁目は、室町1丁目から4丁目、本町1丁目から4丁目と同様、東京の明治・大正時代に至っても、江戸商業の中心地を引きついで大商業圏の一部を形成しているといえます。現在の町名より昔、少なくとも関東大震災前の町名とは非常に違う町名になってしまったという事はぜひ覚えていてほしいことと思います。

本石町には今では全く忘れられているものに龍閑川の大きな土堤があります。

龍閑川は本石町4丁目の所を流れていたのですが、火除のため石を使って土手を築いて、高さ2丈4尺、長さ8町に及ぶ防火地帯としたのは、万治元年(1658)の事といわれています。『江戸名所図会』にも「明暦年間、火災を除かしめんか為に是を築しむ、今は同町本銀町2丁目・3丁目の辺、わずかに其形を残せり。延宝8年の江戸絵図に銀町1丁目より大門通りの所迄、石垣の土手をしるして松の並木を画けり」とあります。安政4年(1857)になって、これをこわして町屋にしましたが火除地の名は幕末まで残っていたといいます。龍閑川は埋め立てられてしまいましたが、場所によっては、まだつづいて少し土の盛り上がっている所があって、わかるなどと云う人もあります。

幕末の町の賑わい

嘉永4年(1851)の『諸問屋再興』当時の本石町1〜4丁目の諸問屋数をみると、『中央区史』上巻によれば、1丁目に炭薪仲買が八軒と一番多く、両替屋・春米屋・竹木木炭薪問屋・紺屋が各三軒ずつ、地廻米穀問屋・脇店8カ所組米屋が各2軒、ほかに真綿問屋・下り蝋燭問屋・小間物問屋・地掛蝋燭屋・番組人宿・六組飛脚屋が1軒づつとあります。2丁目には、呉服問屋四軒が目立って多く、ほかに地廻米穀・薪炭・真綿・紙・畳表・小間物・雛人形の各問屋が1軒づつ、3丁目には春米屋3軒のほか、炭薪仲買2軒、地廻米穀・脇店8カ所組米屋・紺屋・下り水油・地廻水油・蝋燭・薬種・荒物・小間物の問屋が各1軒、4丁目には春米屋・薬種が4軒、ほかに地廻米穀・脇店8カ所組米屋、畳表・紙・荒物・小間物・雛人形・番組人宿・6組飛脚・木綿・真綿・薬種などの問屋が目白押しに並び、特に小間物問屋が7軒と多いのが目につきます。

このように江戸城下では問屋数においては、中央区が第1位を占める問屋数と云われます。

また、玉井哲雄氏の『江戸町人地に関する研究』によると、東京大学史料編纂所所蔵の「日本橋本石町2丁目戸籍下書」を紹介して、本石町2丁目の住民構成について述べています。それによると、家数101軒、地主は5戸、約5%、地借66戸、64%、店借32戸、31%となっていて、地主5戸のうち3戸は出店で、主人は江戸不在でした。御用菓子師金沢三右衛門は居住地一筆をすべて自家で使用していましたが、ほかの4戸は表通りに面して、自分の店を持ち、裏は数戸に貸しています。町内の家持者は17筆です。しかし、明治9年(1876)版の『各区地主名鑑』によると19筆で、そのうち出店も含めた居付地主所有地は11筆になっていて、ほかに他町居住の地主の所有地が見られます。居付地主の所有地を含めて1筆ごとに家主=差配人を置き、地面内の管理を依託しています。また、玉井氏の研究によれば、すでに18世紀前半には江戸町人地の地貸、店貸率は、ここにあげた本石町2丁目の例を上まわって、かなり高くなっているとのべています。江戸という都市のうち、最も繁華な日本橋地区の住民構成が、かなり高かった事が察せられます。

さらに『中央区30年史』によれば、明治9年『各区地主名鑑』第1大区の部には本石町は全くのっていません。他の区に所有者がいて、誰も個人で所有する人が住んでいなかったのか、その点がよく判明しません。10名の1万円以上の土地を所有する大地主のうちには1人もいません。いや5万円以上の土地所有者十18名という名簿からも洩れています。この点一応ありのままに記しておきます。しかし、本石町3丁目松沢孫八といえば蝋・水油で有名な大店でしたが、この点はよくわかりません。

明治初年の状況

明治になって、初年に東京府が成立したのを機に、府内の実体を明らかにするため、各区の役人などの協力を得て、『東京府志料』を編纂しました。明治5年(1872)から7年にかけて東京の当時の府域の実勢を調査したのですが、この府志料を使って、当時の本石町のありのままの姿を見ると次の通りです。

本石町1丁目 此地ハ往古、福田村ト云イ、2丁目モ同ジ、
 土地 形勢 西ノ方外濠ニ接シ、平坦ニシテ低シ、地積 5,467坪、
 戸口 戸数221戸(中略)人口816、男437、女378、車馬 人力車48輛、
 荷車十18輛、小車3輛、
 物産 傘製造高120本、金箔6万5千枚、銀箔5百目(価金高は省略以下同じ)

本石町2丁目
 土地 平坦ニシテ低シ、地積 3,797坪、
 戸口 戸数83戸(中略)人口352、男171、女181、車馬 荷車4輛、小車13 輛、
 物産 雛人形五組、象牙木彫根付類100個、革烟草入12,700具、菓子折
 1,500個、木具類500個、腹掛60枚、股引85具、足袋970双、荷桐油
 1,100枚、桐油合羽370枚、

本石町3丁目 時の鐘、此町北側新道ニアリ(下略)、
 戸口 戸数162戸(中略)人口584、男266、女318、車馬 人力車7輛、荷車 1輛、小車14輛、
 物産 籘造土瓶釣70万個、筆3万本、鼈甲馬爪櫛240枚、

本石町4丁目
 地積 5,102坪、
 戸口 戸数192戸(中略)人口739、男346、女393、車馬 人力車18輛、荷 車21輛、小車14輛、
 物産 煙管1万本、桧折箱3万6千個、象牙根付90、腹掛42枚、股引80具、足袋2千5百双、

本石町十軒店
 地積 1,229坪、
 戸口 戸数33戸 人口181、男111、女70、車馬 人力車2輛、荷車3輛、小 車5輛、
 物産 人形5百個、

金吹町 此地ハ昔金座アリ、故ニ町名トス、其後金座ハ用地トナリテ代地ヲ永富町辺ニテ給ハリシト云、古図ニ吹屋町トアリ、
 土地 地積 1,218坪、
 戸口 戸数30戸、人口125、男58、女67、車馬 荷車1輛、小車1輛、

江戸幕府編さんの『御府内備考』と比肩する新東京の編さん物といえましょう。但し、産業経済の総額に主力がそそがれて、政府と東京府が各町の産業経済をしっかり把握しようと努力した姿がよくわかります。

関東大震災前後

明治30年代は日露戦争後の好況で一時、好況に向かうと思われた問屋街も、大正末期の第一次大戦後の不況にあえぎ、新興の繊維問屋も日中戦争の勃発によって次第に統制を受けるようになり、昭和12年(1937)に始まった日中戦争以来、戦時体制が重くのしかかってくるようになりました。15年の「繊維製品配給統制規則」の公布で配給統制となり、18年1月には国民生活に最小限度必要な衣料品が切符制となり、問屋街も益々さびしくなっていきました。

昭和に入ると日本橋地区の地番整理と町名変更が進み、昭和7年9月に町名改正が施行されました。日本橋地区は、大体かなり旧町名を残した形をとっていることがうかがえますが、場所と町名は大きく変り、どうも私達にとって、「カードを置きかえた」ように大きく変化した感じです。

しかし、一方、大正の10年頃より、電鉄会社による郊外と東京を結ぶ市外電車が、市民に安い土地を確保して、住宅を建設し、そこに居住して東京へ通勤させようとする企画がいろいろたてられました。電鉄会社の設置、通勤線の工事といった具合で進み出した時に関東大震災が大正12年(1923)9月1日に起り、東京に大打撃を与えました。ことに下町の惨状は言いつくせぬほどでした。その焼失した痛手から市民が立ち上がって復興に努力した時、郊外へ郊外へと私鉄がのび、ターミナルが駅を中心に発展し、人口が流入して賑やかな町になっていったのです。市民が住宅を郊外に求め、そこから私鉄電車にのって東京の会社に毎日通うといったサラリーマン形態が、会社企業の発展と共に形成され、大型の郊外住宅発展を急速に伸ばしていきました。この新しい通勤者が私鉄の伸びとタイアップして盛大になり、ついに昭和7年9月1日周辺郊外の町々をそれ迄の「江戸」とよばれた地域と「東京」の周辺町々を合併して、15区にプラス20区の35区とする、大東京と称する大型都市をつくりあげたのです。

戦後の復興

昭和20年(1645)8月の終戦までの間は、空襲ま空襲で、食糧確保のための努力生活だxちたといってよい状況だったのです。

復興という言葉につれて、終戦後、立ち上がった人々は、本当に無からの出直しと云う形で働き出したと云えます。しかし、日本橋一帯の町々は、やはり江戸から明治・大正と東京の商業地の中心でありましたから、何とか持ちこたえ、戦後につながって見事に復興出来たのです。

昭和55年に出版された『中央区30年史』の上巻には「現在の本石町1丁目は幹線33号線が町を縦走し、南部を東洋経済新報社新社屋と東京銀行ビルが占め、北部は東京銀行本社ビルの巨大な近代的ビルが占めている。」とのべています。戦前の特殊銀行は閉鎖機関に指定されましたが、横浜正金銀行(東京銀行の前身)は21年10月新銀行設立の改組案がG・H・Qによって承認されるに至り、大蔵大臣の免許を得て、資本金5千万円の株式会社東京銀行として発足することになりました。

昭和29年になって、外国為替銀行法が制定されると、外国為替銀行に改組、8月に外国為替専門銀行となり、従来、外国銀行だけに限られていた政府保有外貨の預託銀行に指定され、外貨金融、外国為替取引の分野で外国銀行と肩をならべる地位に発展したのでした。

本石町の町々

本石町1丁目

昭和7年9月1日町界変更で、外濠に添って南から北へ4か町となりました。旧本石町1丁目は本石町3・4丁目内となり、2丁目は室町3丁目内、3丁目は室町3・4丁目と本町3・4丁目の内、4丁目は本町3・4丁目内となったのです。現在の本石町1丁目は本両替町の南一部と北鞘町・裏河岸の東部を併せたものです。南は日本橋川、西は外濠で区切られています。

金座と本両替町

本両替町は隣町の駿河町と共に昔から両替商の多い所で、元禄年間(1688〜1704)には10軒の両替商がありましたが、享保頃(1720年頃)には6軒に減少し嘉永年間(1848〜54)には4軒に減少してしまったといわれています。

ここの両替商たちは、金銀両替と上納金の検査をするまでで、銭両替はしなかったといいます。しかし、勿論この辺は両替商ばかりでなく種々の店があった事はいう迄もなく、京都御白粉、お化粧紅粉問屋の下村山城掾の店があった事は有名でした。そのほか、さまざまな店がありましたが、何しろ江戸時代には金座の後藤の屋敷があり、金貨の鋳造所として知られ、後藤庄三郎の名は市中に知られていましたから、本両替町は町名としても重きをなしていたのも当然です。

本石町2丁目

本石町2丁目は、昭和7年9月1日、本両替町の北大部分と本町1丁目の南半常盤町の一部、本革屋町の西一部を合併して2丁目になったものです。

昔の本石町2丁目の間の通りには本町通りの称があって、江戸で最初の町割りが行われた所といわれています。いわば江戸の城下町としての基礎をなす場所です。「将軍御成り」といった時の通過路であり、やかましい場所でした。また1丁目・2丁目は特に呉服商営業地区として指定された地域で、いわば江戸で一番という商業を営む人々にとってあこがれの場所だったのです。格式の高かったことは有名で江戸の豪商の集まる場所でもあったのです。玉井哲雄氏の『江戸町人地の研究』には、享保年間(1716〜36)の頃の本町1丁目南側には町年寄奈良屋市右衛門、金座の後藤庄三郎、呉服問屋で有名な伊豆蔵吉右衛門、浜口三左衛門越後屋左兵衛などの大地主のほか、吉更屋長右衛門、その他多数の大商店が名を連ねています。

ずっとさがった文政年間(1818〜30)の『買物独案内』を見ると、常盤橋御門外1丁目河岸に、薬種の一粒金丹、長崎屋平左衛門、淋病之妙薬を看板にした日野孫八、扇問屋小泉屋五郎兵衛のほか、1丁目の大商店として、呉服問屋伊豆蔵吉右衛門(京都住)、呉服御上下御袴地加納屋長兵衛、尾州御用小間物丁字屋弥兵衛、万金物細工所飾師源治郎、日光伝奏御用御菓司鈴木越後掾、薬種問屋太中庵などが記されています。

本石町3丁目

昭和7年9月の改正で、本町1丁目の北半分、金吹町の西半分、本石町1丁目の南半分、常盤町の中央部を合併して本石町3丁目となりました。玉井哲雄氏の『江戸町人地の研究』によりますと、享保16年(1731)の記録には呉服商人の町で多くの問屋があり、本町1丁目南側に岡田忠助、島飼和泉、吉更屋河内、松屋長左衛門、伊勢屋茂兵衛、一文字屋伝兵衛、ひしや忠左衛門、富山新店、橘屋七左衛門、国分勘兵衛、延寿丹、藤城屋吉兵衛・松坂屋八助等々の諸店があったといいます。江戸の商業地として、すばらしい力をもっていたことは云う迄もありません。明治になっても、ひっくるめて大きな商業圏の一部で、呉服や袋物屋などの店はかなり知られていたようです。北側には昔は刀剣鑑定で著名な本阿弥家の居屋敷があったため、北側の新道を本阿弥小路と呼んでいましたが、この小路は貞享元年(1684)にふさがれてしまったようです。

旧本町1丁目は、4丁目に分かれたため、むづかしいのですが、嘉永四年(1851)の『諸問屋名前帳』に地廻り米穀問屋として、小原屋清兵衛、中村屋治助若狭屋和吉、玉屋新兵衛を記し、その他、春米屋四軒などが記されています。また、文政7年版『江戸買物独案内』をみますと1丁目河岸に「和漢呉服太物切地所奈良屋吉兵衛」、「唐羅紗類・唐草類、京都御織物類品々 いづくら彦三郎」「小間物屋、御手拭・風呂敷問屋槌屋治兵衛」「蝋燭問屋 三徳弥右衛門」の店がのっています。

なお、1丁目の商店として「扇問屋 津島屋次郎吉 本紫染所御幕御召 三河屋与兵衛 真綿問屋 村田屋吉兵衛」の諸店がのっています。

本石町1丁目と本銀町1丁目の河岸は、寛永年間(1624〜44)のころ、家城太郎次が呉服の立売りを始めた所で、のちに竹馬床に発展したことはよく知られています。長さ各23間(約42メートル)、幅3尺の畳床があって、竹馬床といわれて存続して来ましたが、明治18年(1885)に全部取払われたといいます。

震災後の昭和7年ごろには、北越製紙出張所、東洋経済新報社、リーガル商会高橋林三郎商店、菊池病院、東京手形交換所交換室、西洋料理福井軒、織物問屋田島商店などがありました。戦後の昭和53年では、日本銀行別館、北越製紙菊池ビル、日銀前ビル、共同ビル、日本橋室町ビル、田所ビル、千代田ビル等が主な建物でした。

本石町4丁目

3丁目の北にあって、昭和7年9月1日に本銀町1丁目と本石町1丁目の北半、常盤町の北部を合併して、本石町4丁目が出来ました。西に外濠があり、神田区の境界には、昔は龍閑川が流れていましたが、今は全く面影もありません。関東大震災後の復興に当たって、大きな変化がありました。それは復興計画の実施に当たって、多くの土地が公収され、それ迄、商業地として繁栄していた本石町の町々が、その姿を変化せざるを得なかった事です。省線山の手線はまだ東京・上野間がなく、市民が待望久しかったのが、その開通工事に際して、かなりの土地が路線敷として公収され、北部が商業地としての勢力を減殺された点が少なくなかったことです。大正14年(1925)11月1日に待望の東京・上野間は開通しましたが、それは震災後の新しい郊外から東京へと通勤する多くの人々、いわゆるサラリーマンにとっては大きな幸せをもたらし、それらの人々を吸収する役割りを演じたのでしたが、路線敷として土地をけずりとられたと云ってよい本石町4丁目は、更に、昭和4年に建設された常盤小学校の敷地として、かなりの部分がけずられました。

日本銀行

日本銀行が、明治29年に箱崎町から本石町に移って来てからは、本石町という町が、東京で重味をもって来たことは当然の成り行きといえます。

建物は辰野金吾博士の設計で、ネオ・バロック洋式にルネッサンス的意匠を加味したものといわれ、明治時代を代表する建物といわれました。建物は関東大震災で3階の大部分と、2階、1階の一部が焼失しましたが、大正15年に修理を行い、別に昭和13年には東側と北側に増築も行っています。昭和49年2月5日、増築分を除いた旧館に、正門、回廊、中庭を加えて、国の重要文化財の指定を受けました。

また、震災後の道路拡張工事に当たって、新設された常盤橋東詰から三越北角にいたる道路は、補助9号線として幅員16メートルに拡張されました。こうして、次第に本石町の町にも新しい変化が震災後の復興と共に及んでいったのです。

白籏稲荷

本石町4丁目に含まれる本銀町1丁目には白籏稲荷がありました。『狂歌江都名所図会』にかなりの狂歌がのっていて初午などには賑わったようです。この白旗稲荷では幕末には富くじの興行も行われて人々があつまったようで、『撰要永久録』によると、天保2年(1831)正月から向う3カ年間、4カ月ごとに当社内で、鳳閣寺兼帯、遠州浜松の二締坊の興行する富くじ興行を許可する旨の町触れが出されています。天保の頃にはかなりの市民をこの稲荷に集めて富くじで賑わいを見せたようです。

常盤小学校

中央区内には、幕末頃に私塾が非常に発達していたため、住民の子供は、その私塾に入門するという形が出来上がっていましたので、すぐ明治政府の公立小学校に入学する必要もなかったため、明治3年6月、東京府下に小学校を設けた際も、中央区内に公立学校の設立は見なかったのです。しかし、翌4年7月に文部省が創立され、教育制度が次第に整備されていきました。6年3月の一番小学阪本学校についで、6年7月、久松町の小笠原長門守の旧邸地に久松小学校が二番公立小学として設立され、さらに8月には第四番公立の常盤小学校が設立をみるなど、公立小学校が相次いで設立されました。また、新しい教育の外に、体育という運動場を公立小学校が持っているということが、公立小学校時代をつくっていく大きな原因となっていったのです。

(中央区文化財保護審議会会長 川崎房五郎)

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