日本橋堀留町1・2丁目のなりたち
堀留町は中央区の北側、日本橋の北東に位置し、江戸時代以来、大商店や、問屋が集住する町として発展してきました。
町名の由来は、東堀留川が旧1丁目の南で止まっていたので「ほりどめ」といわれたと伝えています。
堀留町の名称は江戸時代にすでにありましたが、現在よりはかなり狭い町で、今の日本橋堀留町1丁目のあたりになります。
昭和7年9月に、旧堀留町1丁目が本町2丁目内となり、12月、堀留町2・3丁目、新材木町・新乗物町・長五郎屋敷および、葺屋町の北一部・岩代町の町々を合せて、堀留町1丁目、および同町2丁目の一部となり、昭和55年に新住居表示が実施されて、日本橋堀留町1丁目となりました。
日本橋堀留町2丁目の地は、長谷川町・田所町・通旅籠町の南一部の地にあたります。昭和7年に両町が合されて堀留町2丁目の内となり、昭和55年に新住居表示が実施されて、日本橋堀留町2丁目となりました。
江戸時代の町々の様相
江戸時代の旧堀留町2丁目は、「下舟横町」と呼ばれていましたが、享保5年(1720)に堀留町2丁目と改称しました。また、旧堀留町3丁目の地は荘助という人が開いたので「荘助屋敷」と呼ばれていたといわれています。
新材木町は、その昔、「芝原宿」と呼ばれた村落だったと伝えられています。椙森神社は、平安時代の末に平将門が信仰したと伝える古社で、のちには江戸城主の太田道灌の厚い信仰もうけたといわれています。江戸時代には江戸三森の一つとして繁栄し、境内で社殿修造のために、「富くじ」を行った神社として有名です。
新材木町の町名は、元和年間(1615〜24)の頃から材木をあつかう商人が多く住んでいたので、その町名が生まれたといわれています。新材木町の河岸を別に「お万河岸」と呼んでいました。徳川家康の愛妾お万の方(蔭山氏の娘)の化粧科所があった所との説もあります。(『江戸名所志』他)
新乗物町は、慶長年間(1596〜1615)頃の起立といい『総鹿子』に「のり物や多し」とあり、『寛永江戸図』に早くも「のり物丁」と見えます。神田(千代田区)の南乗物町にたいして、新乗物町と名付けられたと伝えています。明治以前、この町の一部には長五郎屋敷という町場がありました。岩代町は新乗物町の南続きの町で、一番地しかない小さな町でした。起立年月や町名の由来などは不明ですが、延宝年間(1673〜81)以前の江戸図に見え、古い町であったことがわかります。堺町の裏になっているので、町前の通りを楽屋新道といいました。
葺屋町は東堀留川に面した町で、屋根葺職人が多かったので、町名になったといわれています。大部分が人形町に入ります。
旧堀留町2丁目はのちの旧堀留町1丁目の東にあり、昭和7年12月に通旅籠町の南一部、田所町・長谷川町を合せて起立しました。
長谷川町は古くは禰宜町といい、椙森神社の禰宜(宮司)が住んでいたためと伝えられています。また、明暦の大火後に市街地となり、長谷川久兵衛という人が開いたので、長谷川町という町名になったと伝えられています。『江戸砂子』には、「此所に芝居しばらくあり」と記しています。
また、新和泉町との境いを三光稲荷があったことから三光新道と呼び、田所町と弥生町との間から、神田方面に通じる道を「大門通り」と呼んでいました。もと吉原の大門があったためにそのように呼ばれたといわれています。今もなお、通り名として使われています。
田所町は、この地の名主の田所平蔵が開いた所と伝えています。
旧堀留町3丁目は、旧2丁目と同じく、昭和7年12月、元浜町の南大部分、高砂町・弥生町・新大坂町を合せて起立しました。
元浜町の地は、その昔、東京湾の入江に沿った砂地で、ここを開いて浜町ができました。その後、浜町堀を開さくすると、代地を霊岸島に与えられて町人の大部分が移転していきました。あとに残ったわずかな町場を元浜町と名づけたと伝えられています。かつては町の東に浜町川があって、そこには汐見橋や千鳥橋などの開発初期の浜辺にちなむ名前の橋が架っていました。
高砂町の附近一帯も、家康の江戸開府直後、しばらくは芦や茅の繁る沼沢地でした。それを慶長年間(1596〜1615)の頃に町場の造成をして遊郭を造りました。吉原の地名も葭原に由来するといわれています。
吉原遊郭は、明暦の大火ののち、浅草(台東区)に移転しました。その跡地の町なのでめでたい謡曲にちなんで高砂町と命名されたとされています。
新大坂町も慶長年間頃の起立と伝え(『東京府志料』)、大坂(大阪府)の人が来て開発したため、その名が起こったと伝えられています。当町の北は通油町、東は元浜町、西を大門通りに面していました。俗に人々はここを花町といっていました。江戸初期に、横山町に本願寺(後の本願寺別院)があった頃、香火(線香)を売る家が多かったためといわれています。
元浜町の西に隣接する弥兵衛町は、江戸初期に、この辺がまだ耕地であった、弥兵衛という人の特地であったことに由来するといわれています。『新編江戸志』には、この町も新大坂町と同じく花町と唱えていたと記されており、明治2年に弥生町と改称しました。
戦前・戦後の街の状況
日本橋堀留町1・2丁目の一帯は、江戸時代以来、東・西堀留川の運河の水運を利用して、諸国物産をあつかう船荷問屋が多く集まりました。河岸場には、それらの物産を商う問屋が軒を並べていました。それは幕末から明治時代も続き、富豪の町と呼ばれるほど、大問屋や大商店が並び、明治末期まで、その繁栄をほこっていたのです。しかし、なんといっても、堀留町といえば戦前頃までは鉄や銅を中心とした金属問屋の集中する街として名が知られていました。
『日本鉄鋼販売史』によると、以下のようなことをのべています。大門通りに面して鉄門問屋が並び、活況を呈していたのです。日本橋堀留町の一帯が「鉄のまち」になったのは、東・西堀留川などの運河を利用した船運が四方八方に発達して運送の便に適していたためです。江戸時代には、和鉄の産地は、中国地方や山陰地方が主要な生産地で、これらの和鉄は大坂の鉄問屋が扱っていました。これらと取引する問屋は、現品の輸送を船便によっていたので、船運の便利な土地を選んで店を開いていました。明治維新を迎え、外国との通商条約が結ばれると、明治初年より、ことに洋鉄が輸入されるようになり、その量も次第に増加していきました。当時の外洋船は開港地の横浜までしか入らず、これを東京まで輸送するのには、もっぱら艀を利用していました。明治5年の新橋から横浜間の鉄道開通後も、輸送賃は船運の方がはるかに安く、東京湾から隅田川に入り、それから堀留河岸に向かうのが鉄・銅などの金属原料の搬入順路となっていました。
また、同書では、
「堀留から神田にかけて、鉄問屋の大部分が分布していて、水天宮から岩本町(千代田区)にいたる現在の電車通りの裏側に当たる通りの「大門通り」には、当時の有名な問屋であった湯浅、桑原、浅井、加藤、梅岡、岡谷、水橋、中尾、三崎、竹内などの各店が軒を並べていた。」と、その状況を記しています。
戦前までの堀留町は、大商店や大問屋の並ぶ経済の中心地でしたが、戦災の被害などを受け、また、戦後の流通経済の変化などにより、大小企業のビルが林立するビジネス街に変わっていきました。
江戸時代以来、物資輸送のために重要な堀割りであった西堀留川は昭和3年に東堀留川は同24年に埋立てられて姿を消してしまいました。それでも、現在は、各種金融機関をはじめとするビジネス街にあって、繊維業界等の企業が旧い伝統を残しながら、続いている町でもあります。
毎年秋10月には“べったら市”が開かれ、人々の往来で賑わっています。