日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋兜町

幕府水軍衆の根拠地

楓川を挟んで日本橋1〜3丁目に接する兜町の地は、天正18年(1590)8月の徳川家康の江戸開府までは、海岸部で隅田川河口部の砂洲でした。楓川に沿って埋立てた土地部は、武家屋敷となり、江戸時代初期に海岸線の埋立てを完了しました。

この地域は、当初から隅田川河口部と海(東京湾)から江戸を守る軍事上の拠点でしたので、もともと東海地方の大名であった徳川家康に早くから仕えて水軍として活躍した向井将監や間宮造酒丞、小浜弥三郎等の屋敷があり、海岸と海の守りを固めていました。当時は水軍のことを海賊衆とも呼んだことから楓川には海賊橋という名の橋が架かって本材木町から日本橋地区へと連絡していました。ところが、元禄年間(1688〜1704)に、向井将監の屋敷地が町場となり、坂本町1・2丁目が成立。小浜弥三郎の東に接する小笠原備前守の屋敷地が、神田新銀町塗師町、松下町(現、千代田区)の代地となって町場化し、のちに三代町(「東京通志」には「サンダイチョウ」とあるが、一般的には「ミシロチョウ」と呼んだ)と呼ばれることになります。

兜町の成立

当町域の中ほどに屋敷のあった九鬼式部少輔は、丹波綾部(京都府綾部市)の藩主で1万9千石、もと水軍大名の屋敷でした。九鬼氏も豊臣秀吉、のちに徳川家に仕えて水軍を務めています。北部の河口部地は丹後田辺(京都府田辺市)藩主牧野家3万5千石の上屋敷でしたが、明治4年(1871)町場となり、はじめて兜町が起立しました。町名の由来は兜神社の兜塚・甲山によると伝えています。

これらの町場と水軍旗本の屋敷跡地を合わせて、昭和8年(1933)には兜町1〜3丁目が成立し、のちには日本橋区、京橋区の区割り変更で、京橋区松屋町が編入され、兜町3丁目の一部となりました。昭和22年(1947)には日本橋区の消滅で、中央区日本橋兜町1〜3丁目と町名改正をしましたが、同57年(1982)に住居表示の実施により丁目をやめて日本橋兜町となり、現在に至っています。

株式・金融の町へ

明治元年(1868)の明治維新によって武家地が明治政府に収公されて官有地となると、兜町の地には、民部省通産司や政府公認の米商会社のほか大小の銀行が設立され、金融の中心地になります。明治7年(1874)には楓川と日本橋川の合流する海運橋(もとの海賊橋)橋詰に洋風のモダンな第一国立銀行が建てられ、新都東京の名所となりました。同11年(1878)に米商会社が他に移転し、その跡地に東京株式取引所が設立されました。明治5年(1872)には通産司の御用商人によって木橋の鎧橋が架けられ、のちに鉄橋である鎧橋に改架されて、日本橋地区との交通が至便になると、兜町は証券取引の町として大いに繁栄し、日本経済の中心地として兜町の名を高めたのでした。

江戸時代からの坂本町は日枝山王社(茅場町稲荷)の社前に出た植木職人が多く住み、植木店と呼ばれていました。幕府の御用学者であった荻生徂徠が住んでいたので知られています。

海運橋と第一国立銀行

明治元年(1868)に江戸が東京に改まり、武家屋敷が消えると、明治政府はこれらの跡地を収公して、公共建物を建設していきました。日本橋川と楓川の合流地点に当たる旧牧野邸跡には洋風建築の第一国立銀行が建ち、その前の海運橋(旧、海賊橋)と共に、東京の新名所となり、当時の錦絵にも多く描かれています。

九鬼、小浜両氏の屋敷跡は坂本町になりましたが、警視分庁、阪本小学校、会議所、区役所、国立病院が次々と建設され、政府公共機関の町になったのです。警視分庁はのちの中央警察署の前身です。

この地は、明治後期には坂本公園として洋式公園になり、公園に隣接して楓川女子尋常小学校、第一消防署(のちの日本橋消防署)、阪本小学校に楓川高等女学校が併設されました。楓川高等女学校は昭和22年(1947)に紅葉川中学校となり、同31年(1956)に八重洲4丁目に移転しました。

株式の町を囲む運河

昭和の戦前・戦後を通して、東京証券取引所といえば兜町といわれるほどに「株の町」として有名でした。証券取引所の始まりは明治初年の民部省通商司が設置され、第一国立銀行、米商会社などの政府公認の物品取引機関や金融機関があったためでした。明治11年(1878)に米商会社が蛎殻町に移転した跡に新たに東京株式取引所が開設され、周辺には証券会社や銀行の支店などや証券マン相手の旅館や飲食店などが集中していきました。

大正12年(1923)の関東大震災の後、円形の正面事務所をもつモダンな設計の東京証券取引所のビルが完成しました。これより前の明治18年(1885)に楓川の河口部に兜橋が架けられ、日本橋地区とも直結する町となりました。

兜町の東端にあり、日本橋小網町と茅場町を結ぶ鎧橋はもともと日本橋川にあった渡舟の鎧の渡しがあった所に明治5年(1872)に私費で架けられた木橋が始めでした。同22年(1889)鉄橋となり、大正年間(1912〜1926)には中央を市電の通る大型の鉄橋となりました。昭和32年(1957)架け替えられ、現在も残っています。

江戸時代には海賊橋といわれ年(1875)に石造橋となり、関東大震災後はコンクリート橋になり、昭和37年(1962)に楓川が道路になったため撤去されました。

坂本町と日本橋1丁目を結んでいた千代田橋は震災復興橋として昭和3年(1928)に新しく架けられた橋で現在も当時のまま残っています。新場橋は、江戸時代は対岸に新肴河岸があったため新場橋と呼ばれました。この橋も現在残っています。

坂本町と日本橋1丁目を結んでいた千代田橋は震災復興橋として昭和3年(1928)に新しく架けられた橋で現在も当時のまま残っています。新場橋は、江戸時代は対岸に新肴河岸があったため新場橋と呼ばれました。この橋も現在残っています。

坂本公園とその周辺

戦前、戦後を通して兜町は株式と金融の町として活気を呈していますが、隣接する坂本公園(現、坂本町公園)の周辺は、公共機関と学校のある静かな一角となっています。

阪本小学校は明治6年(1873)に開校した由緒ある小学校で、以後、一二〇年の間に、文豪谷崎潤一郎はじめ多くの卒業生を輩出し、各方面で活躍されています。

坂本本町公園に隣接して、日本橋消防署、新場橋の橋詰には新場橋区民館があり、区民のいこいの場となっています。

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