茅場町1〜3丁目
中央区のほぼ中央部に位置し、南北に北から1〜3丁目と連なっています。日本橋の南東600メートルに当たり、1丁目と2丁目の間を営団地下鉄東西線が東西に横断し、1、2丁目間に茅場町があります。東側を新大橋通りが南北に貫通、並行して営団地下鉄日比谷線が通り、ここにも2丁目東側に茅場町駅がありま。町の西側には、南北に平成通り(旧都電通り)が南北に貫通しています。
茅場町の成立
江戸時代以前の当町域は海中で、天正年間(1573〜92)末に海浜部を埋立て成立した所です。江戸時代初期には葦や茅の生い茂る沼沢地でした。慶長年間(1596〜1615)の徳川家康の江戸城築城の際、神田橋門(千代田区)外にいた茅商人を当地に移住させ、市街地としたので、茅場町の町名が起ったともいわれています。町の北を日本橋川、東を亀島川が流れ、川沿いに江戸湾(東京湾)から船で江戸に入る下り酒の問屋の蔵が多く、白壁が河岸沿いに並んでました。また、町の西には寺地があったのですが、明暦3年(1657)の大火によって、その多くは下谷(台東区)や浅草方面に移転し、その跡地も町場に編入されました。
江戸時代の町々
当町域の江戸時代に町々の様相は、町名として茅場町・岡崎町・亀島町・竹島町、南茅場町のほか、日枝社山王御旅所の門前町がありました。岡崎町は、幕末に北島1〜3丁目のうちに合併され、昭和8年茅場町2、3丁目のうちとなりました。亀島町も北島町と合併し、昭和8年に茅場町2、3丁目のうちとなりました。また、竹島町も北島1丁目のうちとなっています。日枝社山王御旅所門前は南茅場町のうちとなり、大正8年に茅場町2丁目のうちとなりました。
茅場町の賑わい
江戸時代の茅場町は、商人の町として賑わっていました。酒問屋をはじめ材木屋や傘屋が多く、瀬戸物屋もありました。有名店では饅頭屋の塩瀬山城守が知られており、船問屋の利倉屋三郎兵衛が大店として繁昌していました。
元文2年(1737)の『酒問屋人別書』に見える酒問屋として紙屋八左衛門、小西利右衛門など8名が当町で営業しており、運河沿いに店をかまえて諸国から運ばれてくる酒を蔵に陸揚げしていました。
日枝社山王御旅所
日枝社山王御旅所は、赤坂山王(港区)の日枝大社の御旅所を江戸初期の寛永年間(1624〜44』)に当地に造営したもので、永田馬場山王御旅所と呼ばれました。薬師堂をはじめとして、閻魔堂や地蔵堂が境内に並んでおり、毎月8日、12日の薬師様の縁日や勧進相撲が行なわれる日には人々で大変賑わっていました。
山王御旅所の門前はのちに、町奉行支配下の与力・同心の組屋敷地となり明治5年(1872)には、北島町の北部を合併しています。表門前にあった伊勢太は、諸問屋の寄合茶店として有名でした。また、そば屋の雪窓庵やおこしの大沢屋も有名でした。御旅所の境内に隣接した地には、元禄年間(1688〜1704)に俳人の榎本其角が住んでおり、作品を生んでいた所です。
また、近くの植木店には、学者の荻生徂来も住んでいたとされますが確証はありません。
なお、御旅所の境内には、富士信仰の富士浅間社があり、江戸庶民の富士信仰の盛んであった様子をしのばせています。
千川屋敷
茅場町1丁目のうちに、俚俗地名として裏茅場町があり、当地には千川屋敷がありました。元禄12年(1699)に江戸城下の上水である玉川上水樋のうち、四谷から江戸城西の丸下通りまでの通水樋桝の大普請工事を行った時、工事請負の人達が、江戸幕府に請願して、山王御旅所の北側にあった亀島川の入堀を埋め立て、町場として屋敷地を拝領しました。その地を、玉川上水の別名である千川の名を採って、千川屋敷と称したのです。現在、練馬区石神井台にある千川家文書にその由来が見えています。
与力・同心の組屋敷地
岡崎町は1〜2丁目からなっていました。当地は、江戸初期には寺院の集中する寺町でしたが、後に武家地となり、享保6年(1721)には町奉行支配の与力・同心の組屋敷地となりました。岡崎町の町名は、町名主であった岡崎十左衛門の名前に由来します。商人の町で、のちのちまで町名主は岡崎十左衛門、大店としては、板材木問屋の万屋与七が知られています。嘉永7年(1854)の『両替地名録』には両替商として伊勢屋太郎兵衛や八木屋喜太郎の名が見えています。
岡崎町も、幕末に亀島町1丁目のうちとなり、2丁目に八丁堀亀島町が編入されました。明治11年(1878)の町域の広さは、岡崎町1丁目が5,987(東京地所明細)同2丁目は3,869坪』(同前)で、かなりの広さをもつ町であったことがわかります。1丁目の寺子屋・宝龍堂では、田辺其治が塾長で、幕末には生徒数58人を数えました。
隣接する北島町も1、2丁目がありました。同地も、岡崎町と同じく、寛永年間(1624〜44)では、すべて寺院町で法泉寺・願成寺・長応寺などの境内地でした。後にこれらの寺地は町場に編入されて、町奉行支配の与力・同心の組屋敷となっています。
丸橋忠弥の捕物で有名な与力の原兵右衛門の屋敷は特に広大で地方領地の収役を支配しており、「代官屋敷」と呼ばれ、蔵が5つも並んで人々の目を引いたといわれています。
北島町には俚俗地名が多く、神保小路・輪宝小路・提灯掛横町・七軒町・鍛冶町などがありました。明治11年(1878)の町域の広さは1丁目が4,509坪、2丁目は3,869坪(東京地所明細)でした。
竹島町と亀島町
竹島町の地は古くは武家地で、岡部新六郎の拝領屋敷地であったのを、元禄15年(1702)に幕府に収公されて町場となり、竹島町と命名されました。
安永4年(1775)の江戸切絵図では「百間長屋」と記されており、多くの町民が居住していました。幕末には亀島町2丁目のうちに編入されています。
亀島町1、2丁目の地は、江戸初期には川が流れており、それを埋め立てて武家地になりました。享保年間(1716〜36)に武家地から、町奉行支配の与力・同心の組屋敷地となりました。1丁目と2丁目の間に絵師の狩野祐清が居住していました。亀島1丁目と2丁目の道路、2丁目と北島町との間の道路には、その昔には亀島川の入堀が入っており、堀の鍵の手に屈折すつ所には、地蔵橋(古くは仁蔵橋)が架かっていました。この近くの借屋に宿を借りていた伊能忠敬が弟子たちと「大日本余地全図」を製作し、忠敬の没後に完成して幕府に献上された所です。当町の大店としては、荒物問屋の日野屋万平がおりました。
明治11年(1878)の町域は1丁目が6,468坪、2丁目は2,981坪(東京地所明細)であり、かなり広い町であったことがわかります。
米問屋と株屋の多い町
明治に入ると、当町域は、旧大名屋敷や与力・同心の拝領地であったことから三井や三菱の大企業が土地の多くを所有し、1丁目は大店が多かったのですが、2、3丁目は長屋の多い庶民の町として借地や借家が大部分を占めていました。
日本経済の中心であった兜町に近いため、株屋が多く、大変な賑わいでした。もとの亀島町の河岸場には米問屋が多く、第二次世界大戦の頃までその状況が続いたのです。
また、旧大名屋敷の屋敷神である稲荷神社が、昭和時代までも多く残っており金商神社や純子稲荷は、現在でも地元の人々の信仰を集めています。
関東大震災とその後の変化
大正12年(1923)9月の関東大震災では、当町域は大きな被害を受けてしまいました。その後、同14年には区画整理を行って、江戸時代以来の露路や横丁が姿を消し、新しい町に生まれ変わりました。
昭和初年には、市電通り(現、平成通り)が開通し、市場通り(現、新大橋通り)も開通して、交通が大変便利になり、株屋街もますます賑わっていきました。市電は築地方面から当町を通り、人形町の繁華街へ通じていました。当町の大きな商店では、中華料理店の偕楽園と東洋ホテルが知られています。
第二次世界大戦後の状況
この様に江戸時代の商人と職人の集中した当町域も、昭和20年(1945)2月25日、及び3月9日夜半の東京大空襲によって、ほとんど全域を焼失してしまいました。焼失を逃れたのは、阪本小学校の周辺だけという状況でした。
戦後の復興に努めましたが、都電の廃止と共に、昭和39年の営団地下鉄日比谷線についで、同40年に地下鉄東西線の開通以後オフィスビルが建ち並びました。町の様子は大きく変わりましたが、それでも江戸情緒を残す茅場町薬師の祭礼等も盛んで、町は発展を続けています。