日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋小網町

小網町のこと

小網町というと、「昔は」という話がすぐ出るほど、終戦後の市街の改造にあって四分五裂して、昔の面影を語ることが出来ないほどの変りようを見せています。

小網町は昭和51年住居表示実施により、旧来の小網町1・2・3町を合せて日本橋小網町となった町です。

江戸時代、ごく初期の頃は「番匠町」といったといいますが、小網町となったのはいつ頃かはよく判りません。小網稲荷というのがあって、それをとって小網町としたという説もありますが、よくわかりません。しかし名の通り、河岸とか入江とかいった場所が多かったことはたしかです。蛎殻町もこれと関係があるようです。

小網町の漁師たちが、家康入国後葛西方面へ出かけた時網をひいて見せ、肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得、外濠内での夜猟のあと明け方引きあげてくると、小網町1丁目の町角に網を一張干しておくのが慣例だったといいます。

享保になって白魚屋敷を拝領したのも、ここの漁師達の子孫で、佃島の人達とは別な特典をもっていたといわれています。(「管園心おぼえ」より)

行徳河岸など

1丁目の河岸を末広河岸、東堀留川の河岸を西方河岸、2丁目思案橋の側を貝杓子店といったり、日本橋川に沿った河岸を鎧河岸といったりして、全く川や入江と関連をもっていた町であったことがわかります。

明治のはじめまでは、鎧橋のところに橋がなく、鎧の渡しと呼んでいたといいます。ここには古くから伝説が残っていて、源義家が下總国へ渡ろうとしたら俄かに暴風のため風がくつがえる程になった。義家はそこで鎧を水中に投じて水神の怒りをしずめ、渡ることが出来た。そのため、その跡を鎧が渕というという伝説です。

これでわかるように水上交通が発達し、小網町3丁目行徳河岸から行徳行の船が出ていました。寛永9年(1632)頃からあったという行徳船は江戸と下總を結ぶ大きな役割を果していたのです。蒸汽船の発達で行徳船が廃止されたのは明治12年のことですが、小網町がどんなに物資を揚げるのに適した日本橋有数の河岸であったかがわかりましょう。また、ここは物資を出し入れする外、人々の交通が盛んで、行徳と江戸とを結ぶ重要交通機関だったのです。同じく小網町1丁目の信太河岸は伊勢町掘の東岸をいいましたが、上總の信太との交通があり、結構乗客があったという話です。江戸湾を横切って行徳や信太へ渡る交通が開けていた事、小網町の江戸に於ける重要な場所であったことがわかります。

奥州船積問屋と鍋釜問屋

小網町は場所がら下總などから来る商人はいう迄もなく、大阪から下ってくる商人達も小網町へ来る人々が随分あったのです。そのため、旅人宿もかなり知られた店があったようで、小伝馬町組旅人宿に属した店として

小網町1丁目 上總屋

 同  2丁目 相模屋 上總屋 都賀屋

 同  3丁目 大塚屋 伊勢屋 平野屋

があり、天保改革までは、町奉行所近くに火災があった際は、消化にかけつけることになっていたという話です。商業地としての小網町の姿の一端がわかります。

奥州船積問屋などは全部36軒が中央区にあり、そのうちでも、小網町1丁目に伊藤屋藤七、2丁目には加賀屋六助、伊勢屋藤兵衛、西村屋嘉兵衛、利根川屋幸助、堺屋清次郎、万屋作兵衛、つ太や宇八、小室屋定次郎、山口屋清六、津久井屋理右衛門、乙女屋三次郎、市川屋庄左衛門、結川屋茂兵衛、土浦屋太兵衛、野田屋卯兵衛、加田屋長右衛門、金子屋紋兵衛、宮屋善兵衛と何と二十軒が小網町にあったのです。ことに2丁目に19軒あったことなど、どんなに堀や川というものと商品輸送とが関連して発展できたかわかりましょう。

また、鍋釜問屋が集り、文化文政以降2丁目に釜屋六右衛門、3丁目に釜屋八兵衛、浅右衛門、治左衛門の店があり、10組便覧にものっています。中でも釜屋治左衛門は近江出身で、卿里の伊吹山産のもぐさから切艾をつくりもぐさ屋専門店になり、大釜を看板にかかげて有名でした。

小網町の商店

なお、小網町という町、現在では明治・大正・昭和という時代に新しく発展した、日清製粉とかヒゲタ醤油、或は小網商店とか大きな会社もあり、また証券会社の多い町としても知られてはいますが、それとは別に江戸の古い時代からの商店で今なお続いている店があるという点で、日本橋でも、まだかなり特色をもっている町といえます。

もぐさで有名な釜屋商店、万治2年(1659)をはじめとして、

妻揚子の卸小売のさるや 宝永元年(1704)
食料品雑貨の大茂商店 文政元年(1818)
荒物雑貨の駒木商店 天保元年(1830)
荒物雑貨の阿波屋森友商店 安政元年(1854)
ロープ・漁網の金久保商店 文久元年(1861)

など、100年以上、いや200年以上も続いている商店があります。(中央区100年経営商店)

小網町という町、今は随分小区域の町ですが、小網神社を中心に、さすがは日本橋でも昔からの商人の街という感じがします。

明治35年「新撰東京名所図会」には、かなりの運送会社の名が出ていて、明治以降も回漕会社がなお小網町にあり、小網町の町としての姿もこうした業者が活躍していた町だったといえます。

小網町という町、川があり河岸が発展して海や川から荷を運んでくるには全く好都合の場所であったことは否定できません。

思案橋、永代橋

そのため、橋というものも大きな役割をになっていました。

小網町1丁目と2丁目を結ぶ思案橋、長さ9間2尺の橋ですが、何しろ初期にあいては近くに遊廓もあり劇場もある地域をひかえての橋です。橋の途中で、どちらへ行くかを思案したため、橋名がついたといわれています。

このあたりから隅田川向うへ渡る橋は永代橋でした。元禄に架せられて以来どんなに便利で重要な橋になったことか。

この思案橋は小網町の発展を支える大きな役割を果していたのですが、神田方面から深川方面へ行く重要な通路で、人通りも多く、永代寺の富士講や、富岡八幡の祭礼にはぞろぞろ人が通って賑やかだったといいます。それが、明治27年永代橋のかけかえの時、位置の移動があって北新堀町から深川にかかっていたのが新川から佐賀町にかかるようになり、北新堀町から思案橋(後小網橋となる)へくる通りはバッタリさびれてしまったといいます。

こうした橋や通りの変化で、随分盛衰があったようです。

大正6年の小網町

大正6年の「営業者姓名録」を見ると小網町1丁目には、東洋紡績があり、楊枝のさるや、刃物のなごや商店、綿糸問屋の麻屋、乾物荒物の大阪屋中村茂八、旅館の大塚屋、大松屋、綿糸商上州屋柿沼、砂糖の伊藤などがあり、2丁目には釜屋もぐさ、諸油及小麦粉卸商の島屋、太物問屋松坂屋、紙問屋中田、旅館左々間館支店、喜文、小松屋、栃木銀行、スワン万年筆の鳳林堂、砂藤の増田増蔵支店、山田湯、小網町3丁目には荒物海草問屋の駒木、九州水力電気、ヘルム商会、雑貨の土岐商会、醤油の根本、株取引多田岩吉と青木商店、武田ビルブローカー、それに清水廻漕店、醤油岡田商店、雑穀の大島屋、鍋釜の釜七本店砂糖の桑山、鍋釜の田中商店、醤油の豊倉屋、旅館大阪屋、川崎屋、綿糸の信友商会などがあり、また4丁目には荒物雑貨卸商阿波屋、叶屋加納仙次郎店東洋海上保険、西洋料理吾妻亭、豊国銀行、浴場の別府温泉、伊香保温泉など、呉服のめん屋、旅館中野館、印刷岡田商店、薪炭商中野屋、紙問屋明治屋疉職根本金左衛門などがあり、小網仲町に美術商尚古堂、東洋紙工会社、紙問屋大坂屋、金物の古川、縄莚の遠州屋と町山商店。小麦粉卸の川口、村松の両店。荒物の川口商店、西洋料理の万養軒、前田自転車店などがのっています。

ざっとみて、大正6年代の小網町、実にさまざまな店が並んでいたことがわかります。

何といっても醤油の浜口、ヤマサが大きい会社を代表していたといえましょう。

震災以降の小網町

関東大震災後復興都市計画で大きく変り、また今度の戦争の後、昔の面影をとどめぬ程に変って発展していったのです。

戦後の小網町は道路の改正により、全く変化してしまって、到底昔の面影をとどめないと言うと大げさのようですが、随分かわりました。

小網町全体を眺めると、小網神社が何としても町の人の支えになっていて、御神興は名物で、そうした中で、兜町1丁目、人形町1丁目、茅場町1丁目に囲まれたビルの林立、証券会社の進出などが際立っている小区域の町といえます。

(中央区文化財保護審議会会長 川崎房五郎)

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