小舟町は北から南へかけて三か町に分かれていたのを昭和7年9月、その東の堀江町1・2・3丁目を合併して南から北へ1・2丁目の2か町とし、小舟町1丁目は当時の小舟町2丁目の南半に、小舟町3丁目、堀江町3丁目と堀江町2丁目の南半を合わせて一町とし、小舟町2丁目は、当時の小舟町2丁目の北半に、小舟町1丁目、堀江町1丁目と堀江町2丁目の北半を合わせて一町としました。
そして、後に1丁目と2丁目が合わさって現在に至っています。
町の由来
江戸の初期からの町で、『東京府志科』によると「慶長8年町割ノ時ハ下舟町ト唱ヘシヲ、享保5年今ノ町名トス。蓋シ古図ニ今ノ本船町ヲ大船町ト稱セシニ対シタル名ナルベシ」とありますから、江戸湊の一端の荷揚場的役割を果していた町と言えましょう。
また、『寛永江戸図』には、もとの西堀留川の西側に「こふな町、同2丁目」とあり東側に「あえものかし」と記しています。西掘留川は慶長の埋立工事の時造られたと伝えられ、江戸の湊口への物資輸送に大いに利用されたため、小舟町西の河岸を小舟河岸とか鰹河岸と呼び、かなり重要な役割を果していたようです。
家康入国後、この地を漁夫の堀江六郎に与え、魚類を納めることを命じたことから堀江町の町名がついたと言われます。
神田明神御旅所
神田明神社内の天王三の宮とは深く関わりがあったようで、その祭礼には小伝馬町などと共に神輿を回す慣習があり、随分賑やかで、「小舟町の往還には模造の山門を作って提燈をかけ、夜毎に灯がともされ、夜中の賑い筆舌に尽しがたい」ものがあったと言われています。この御旅所は古くは小伝馬町に設けられたものでしたが、正徳年中、疫癘を祓うため小舟町に遷し、それが引き続き慣例になったと言われてます。
照降町
ここで一言つけ加えねばならないのは照降町のことです。堀江町3丁目と4丁目の間の僅か2丁たらずの境界の通りに、江戸時代、下駄と傘、雪駄を売る店が並び賑わったので、照る日に使うものと雨の日に使うものを売る所から照降町と呼ばれたとか言われてます。古くから営業していた宮田傘物店の引札に、「寛永3年に開店し、紅葉傘と千利久の用いた庭下駄、めせき笠を売り弘めた所、殊の外繁昌し軒並みに同業者が店を並べ、せった・傘・下駄るいの商売多く、世上に異名を照降町と呼ばれるようになった」とあります。井原西鶴も、『日本永代蔵四』に、「降照町は下駄、雪駄の細工人」と書き、2代目団十郎の書いた『老のたのしみ』の中にも、俳人其角が嵐雪と共に、「てれふれ町足駄屋の裏」にわび住いをしていた記事があります。降れば足駄や傘が売れ、晴れた日には雪駄が売れるので、通る人が挨拶に困り、照れ、降れと願望をこめて呼んだと言う話もあり、てれ降れ町とも言ったのかも知れません。実際には照降町と呼ぶのが本当のようです。しかし江戸市民の町の呼び方、なかなかすばらしいと思います。
小舟町と商店
こうした元禄以前からあった小舟町一帯にはいろいろ商店にも有名店があり、照降町には伊勢屋大掾の娘で俳人として有名な秋色女があり、町角にあった翁屋は「翁煎餅」として江戸市中に知られた店であり、『江戸名物詩』にも載るほどでした。また今も楊枝店として知られるさるやは、猿を看板に出して、江戸に聞こえた楊枝の店でした。
小舟町にいた富豪たち
こうして古くから、いろいろ続いて来た町でしたが、さすがは日本橋の商店街、明治以降に富豪が多く住む場所で、『日本橋ニ之部町会史』にも、明治の初めから、この町を地盤に発展した金融界や実業界の大物と言われる人々が多いこととし、その一つに財閥、安田善次郎氏が創始した安田銀行発祥の地(現富士銀行小舟町支店)があること。また小倉石油の小倉常吉氏の本拠(現小倉ビル)があることそのほかに砂糖問屋の巨商百足屋(小林弥太郎氏)や、鰹節問屋の三半(籾山半三郎氏)、綿糸業界ではトップ・クラスを占めていた斉藤弁之助、岩田友衛門(大阪の岩惣の一族、現岩友倉庫)、柿沼谷蔵、田村政治郎などがあり、明治から大正、昭和初期にかけては富商が多かった。
と述べ、安田善次郎氏が両替屋から安田銀行を創設するに至る話や、小倉常吉氏が大伝馬町1丁目の小倉油店の店員から独立して小舟町1丁目1番地に店を出し、河岸に出入りする船に油を供給する油行商を始め、やがては石油鉱区の開発にのり出し、大正14年小倉石油(株)を設立した話、奥さんを店の帳場に座らせて評判になり「小倉の店」といえば有名だった話など小舟町の店々が発展して大企業となる姿を述べています。小舟町の富豪達、並々ならぬ努力によって財をなしていった姿の一片がうかがえましょう。
団扇問屋
堀江町といえば、多くの団扇問屋の集まっていた所で、夏を代表した団扇が、江戸市中へここから運び出されていったのです。江戸歌舞伎の錦絵が団扇になったのはいつ頃からかは明らかではありませんが、どうも『江戸団扇絵商沿革調』に「正徳宝暦間墨刷なり」とあるのが正しいようで、色刷りの歌舞伎絵になったのは天明・寛政以降というのが定説のようです。江戸団扇はあづま団扇とも呼ばれ、文文政から天保にかけて実におびただしい程の歌舞伎の錦絵団扇が売り出され江戸の女性達が争ってこれを求めた事がいろいろの本に出ています。
また、狂歌師とか戯作者達が団扇絵に賛を入れたりするのが流行し、更に幕末には広重や北斎などまでが、いろいろ描いた団扇絵が残されて、好事家の所蔵に帰している話もあります。
何しろ「堀江町春狂言を夏見せる」と川柳にもある通り、どんなに錦絵の団扇が好評だったかわかりましょう。安政3年の『府内輸入貨物内申』によると、団扇について、
1、1ヶ年凡地張団扇大小合凡192万5千本是は堀江町団扇問屋より御武家方輕藩中衆え注文致、内職張立候。
同下り団扇大小合凡140箇此本数14万本。是は、京都伏見団扇屋共より堀江町団扇問屋両組小間物問屋、同丸合組え引請売捌候。
とありますから、堀江町の団扇問屋が軽輩の武士達に内職として団扇張りをさせていたことがわかり、面白いと思います。しかし、この団扇張りの内職が年間192万5千本もあったという事、当時の武家の軽い身分の人達が殆ど全員総出でかからなければならないほどの本数です。幕末安政という時代、生活の面で、どんなに下級の武士達が困窮していたことか。そうした武家の生活の裏面がうかがえましょう。
堀留川の埋立て
小舟町という町、ひっくるめていえば、堀や川がずっと通っていて、物資を運ぶ舟の運行にも便利で、その地の利が、江戸有数の問屋になっていった所と言えます。
西堀留川は震災後の区画整理で昭和3年3月埋立てられ、この辺の街の姿もかなり変りました。江戸橋交差点の昭和通りから芳町通りに道路上に荒布橋があったことなど忘れずにありたいものです。
また、昭和の戦争というきびしい時代から新しい復興という時代を迎えても、大きく変りました。何よりも東堀留川が埋立てられた事です。東堀留川には思案橋、親父橋、万橋が架かっていて、江戸以来いろいろの話題を提供してきた橋なのですそれが、昭和24年8月末の埋立てによって全部撤去されたのです。小舟町のいろいろな歴史の名残りの橋が消え去ったと言えましょう。
(中央区文化財保護審議会会長 川崎房五郎)