小伝馬町の位置
小伝馬町は、中央区の最北端やや西側に位置し、北は千代田区境で、千代田区岩本町1丁目に接しています。日本橋の北方1キロメートルに当たります。
当町のほぼ中央を南北に人形町通りが貫通し、並行して営団地下鉄日比谷線が走り、小伝馬町駅があります。また、南には江戸通りを境にJR総武線が東西に走っています。
旧奥州街道の六本木宿
江戸時代の当町域は、神田堀(神田八丁堀)に面した町人町で、小伝馬町1〜3丁目・小伝馬上町・亀井町・元岩井町埋立地・柳原岩井町上納地の全域及び通旅籠町・大伝馬町2丁目の各一部から成りたっていました。
この地は徳川家康が江戸に入部する以前は、千代田村といわれ、奥州街道が通っていました。六本木という宿駅があったといいます。
はじめ小伝馬町は大伝馬町と共に伝馬町といわれ、慶長11年(1606)に江戸城内にあった伝馬役を務める人々がいた町であったのを当地に移転した町でし。旧小伝馬町は1〜3丁目に分かれ、小伝馬町1丁目の北半分は、小伝馬町の牢獄の地域になっていました。1〜3丁目の町名主は宮辺又四郎が代々世襲して勤めました。
寺院があり、東光寺と地蔵院は明暦3年(1657)の大火の時、浅草(台東区)へ移転しています。京橋の金六町と同じく障子などの建具職人と長持つくりの職人等の多い町でした。商売としては、布地や家具や塗物を商う商人が多く、畳屋・附木屋・指物師がおり、職人の町としても賑わっていました。1丁目には大仏師の元慶がおり、幕末には質屋1軒と資料に見えています。
小伝馬町の牢獄
小伝馬町の牢獄は、小伝馬町1丁目の地にあり、徳川氏の江戸入部直後には、江戸城内の常盤橋にありましたが、慶長年間(1596〜1615)に城内から当地に移されました。周囲を濠で囲み、広さは2,677坪余りもある広大な敷地でした。南に正門があり、その西に牢役人の石出帯刀の役宅がありました。幕末に吉田松陰が投獄されたことで有名です。牢獄は明治8年(1875)に他に移転しました。
小伝馬町3丁目の北に隣接する小伝馬上町と小伝馬町2丁目の間の道を諏訪新道と呼び、小伝馬上町南西端に諏訪明神と千代田稲荷の2社が鎮座していました。
小伝馬町上町の町域は明治11年(1878)では2,736坪(東京地所明細)で、江戸時代以来の十組問屋に属した釘鉄銅物問屋が多く商いをしていました。
小伝馬町3丁目の賑わい
小伝馬町2丁目の東に隣接する3丁目の地は、旅人宿の多い賑わった町でした運河に架かる鞍掛橋を渡ると馬喰町に続いており、宿駅に近いことから、当町域も旅人や馬喰などの往来が多く、旅人宿が集中していたのです。宿屋としては、佐渡屋、越後屋など8軒があり、小伝馬町・馬喰町旅人宿組に属して営業していました。嘉永7年(1854)の『両替地名録』によれば、両替商として徳力屋佐兵衛、鉄屋市郎兵衛が営業しており、幕末には質屋が4軒あったといいます。
その頃、当町のうまい蒲焼屋として大和屋清三郎が有名でした。
町駕籠で有名な亀井町
小伝馬町3丁目の北、小伝馬上町に東隣する亀井町は江戸中期の天和年間(1681〜84)までは寺地でした。町名の由来は亀井某が開いた所によると伝えられています。当町には職人が集住し、特に町駕籠を製造する職人が多く、江戸市中でも「亀井町のかご」は有名で、江戸名物にあげられているほどです。ほかに味噌漉や笊の職人も多く生業に従事していました。
この他、嘉永7年(1854)の『両替地名録』には両替商として池田屋小兵衛がおり、幕末には質屋が1軒ありました。
寺子屋の隆盛
当地域には、江戸後期には多く寺子屋が出来て、町人の子弟に教育をほどこす努力をしています。小伝馬上町の好学堂は、神官の千代田信安が塾長になって活躍し、明治2年(1869)には生徒数は男子68人、女子62人を数えました。亀井町の慶雲堂では、黒川リヤウが塾長となって、明治初年には男女生徒45人を数えていました。
元岩井町埋立地と柳原岩井町上納地は、亀井町の北に隣接する神田堀に沿った東西に細長い町でしたが、明治2年(1869)に亀井町に合併され、神田堀以北の地は、昭和6年(1931)4月に旧神田区(現、千代田区)に編入されました。
明治時代以降の状況
当町域の江戸時代の町のうち、昭和7年(1932)12月に小伝馬町2丁目に小伝馬上町の東半分を合併し、通旅籠町の一部を編入しました。小伝馬町1丁目には大伝馬町2丁目の北一部、小伝馬上町の西半分を合併しました。小伝馬町3丁目は、亀井町全域と西緑河岸の一部を合併しました。また、昭和6年4月には、小伝馬町3丁目のうち、神田堀以北の地が旧神田区(現、千代田区)に分離編入されています。
繁栄を続ける繊維問屋
当町域は、明治に入っても江戸時代以来の伝統を継いで衣類や繊維問屋が多く、活気のあふれる商業地帯でした。2丁目や3丁目には竹屋や銅壺屋が多く、小伝馬町から馬喰町の中間になる鞍掛橋の龍閑川の運河には、繊維問屋や金物問屋の蔵が並び、運河から舟に積んだ物品を荷揚げする河岸場は、大いに賑わいを見せていたのです。
また、江戸通り(のちの都電通り)には、これも江戸時代末の伝統工芸である箪笥職人が多く生業についていました。3丁目には、町駕籠職人の技術を継いだ籠職人が多く有名でした。
関東大震災とその後
江戸通りには市電が通行し、日本橋や上野(台東区)方面への交通の便も良く、通りにはミルクホールやカフェ・飲食店が多く繁華街として賑わっていました。
大正12年(1923)9月の関東大震災では、当町も大きな被害を受けましたが、昭和初年には復興し、昭和通りが完成して、町の様相も次第に変わっていきました。
第二次世界大戦後の町の様相
震災の打撃から復興し繊維問屋や金物問屋の町として繁栄してきた当町は、第二次大戦末期、昭和20年(1945)2月25日、3月9日夜半の東京大空襲で再び大きな被害に見舞われました。町域のほとんど全域が焼失し、特に龍閑川沿いの街並は完全に焼失してしまいました。わずかに十思小学校の周辺が焼け残ったのみという大被害でした。
戦後の復興は早く、和装小物の問屋が多くありましたが、次第に会社組織に替える店が多くなり、平成年度に入ると急速にビル街に変わっていき、銀行などのオフィスビルも増えてきています。
都電が廃止され、それと共に昭和39年に営団地下鉄日比谷線が開通して小伝馬町駅が開業し、人々の往来が多くなり、町も繁栄を続けています。