日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋室町・日本橋本町

日本橋北の町々

「今は昔」の言葉通り、江戸時代、江戸城への出入口として常盤橋が重要な位置を占めていた時代は、奥州街道筋の本通りはここから始まるとして、本町1丁目・2丁目・3丁目という町が、浅草橋へ向かって延びていました。しかし、関東大震災の復興後、昭和7年の区画整理による町名改正で、江戸時代の町名があっても、それは場所的に全然違った場所に町名が移ってしまったといってよいほどの大変化でした。その最たるものが今の本町1丁目・2丁目・3丁目などで、南北に並ぶ通りの町であるため、昔の東西という通りは場所も大きく変わりました。室町の方も本町ほどの変化とは違うにしても、江戸以来明治・大正にかけて、多くの代表的商店がどんどん町名が変ってしまったため、戸惑う人々も多かったのは事実です。

日本橋魚河岸

さて、日本橋といえば「1日に3千両のおちどころ」の川柳の通り、朝は魚河岸、昼は芝居町、夜は吉原と、千両ずつおちるといわれた、その朝千両の魚河岸があります。どんなに江戸の景況を左右するほどの繁昌の場所だったことでしょうか。江戸市民のビタミンAの供給の第一の場所、河岸には魚をあげる納屋が建ち並んでいますが、魚市場はずっと延びて拡がって、今の三越の前を入って昭和通りの近くまでの広い場所に魚市場がありました。勿論後から市場に加わったため、新肴場だの新場と呼ばれる場所までを含めて、日本橋の魚市場というものは随分広かったのです。

日本橋と花柳界

大通りには日本橋が架せられて以来の江戸・東京を代表する商家が並び、橋の北東には魚河岸の市場があり、橋南の通り町筋の繁昌と共に、活況を呈していたことはいうまでもありません。こうしたところには、勢い旦那衆たちの社交場、或いは商談の場、寄り合いなどの宴席に連なる女性達が必要だったので、日本橋芸者とよばれる女性がいる花柳界が育っていったのです。それは、1カ所にまとまってはなく、日本橋の南北の町の裏通りに点在した形で発展しました。今の通り2丁目・3丁目、江戸橋2丁目・3丁目あたりまでを含んだ場所だったようで、一石橋のあたりから上槙町の方まであって、盛大だったといいます。このあたりを舞台にした泉鏡花の『日本橋』が有名です。

よくわかりませんが、寛政の松平定信の時代、各藩留守居役たちの会合や魚河岸の人々の会合にも好都合という所から願い出て、やがて公許された花街だといわれ、文化文政から天保にかけて、大いに繁栄しました。維新後は一時おとろえたといいますが、明治18年の『東京流行細見記』には、新橋、柳橋、芳町につぎ東京で第4位の89人という芸妓数を示しています。

今は立派なお堂の中におさまっている西河岸地蔵は、こうした女性達のお百度を踏む姿が評判で、今でもお百度石が残っています。

西河岸一帯はこのお地蔵さんの縁日の4の日には毎月露店が出て大変な賑いだったという話ですが、大正の大震災でかなり変ってしまったようです。

田山花袋は『大東京繁昌記』の「日本橋附近」で「その時分では銀座は新式のいわゆる煉瓦町であったが、京橋から日本橋、眼鏡橋(万世橋)にかけては、ほとんど洋館という洋館はなかった」と在りし日の日本橋の大通りについてのべています。明治時代の日本橋の大通りの商店が意外に陰気な店だったとのべているのは、明治と現在を比べてみて、どんなに明るい町になり、夜の光りのあふれる町に変ったかがわかりましょう。

室町1丁目・2丁目

室町1丁目と2丁目は一つにして、いろいろの昔の姿を見た方がよろしいようです。

室町1丁目は、昭和7年9月の区画整理の上、町名改正があり、旧室町1丁目・2丁目、品川町、同裏河岸、長浜町、安針町西一部、本船町西一部、駿河町南一部を合併して、室町1丁目と改めました。

2丁目は昭和7年9月、本町2丁目の南半、2丁目・3丁目の南の一部、室町3丁目、駿河町の北大部、本革屋町東大部、瀬戸物町の北一部、伊勢町の一部を合併して出来た町です。昔と比べて実にややこしい分け方で町が出来たのですが西側では三井越後屋が構えた町といった感じがします。

延宝元年(1673)初代三井高利が本町2丁目に店を出し、天和3年(1683)店を駿河町に移して、「現銀掛値なし」の新商法によって今日の大をなすまで、室町と三井家とは、呉服屋、両替店の経営から、明治以後の室町一帯は三井系列の会社で占められているといってよいほどです。旧室町2丁目と3丁目の間、「駿河町より瀬戸物町へ通ずる道は、江戸第一の金銀通貨の往来する道路なり」といって三谷とか中井とか、三井、竹原など、著名な富商の名をあげています。また、定飛問屋の存在についても、「此等の営業日に日々金銀の出入りするには、此横町を通らざるものなし、千両箱を車に積み或は棒に担ひ、手代附添で運搬す。其頃毎日10万両程は往来せり。今は10万円は風呂敷に包み持運べるが、十10万両の金量は容易ならず。中等の人は千両の金も並べて見る事さえ難き世の中、斯の如き通貨の頻繁に往来するは、江戸広しとも雖も、他の町にあらざる所なり」と風俗画報の397号に天保老人文の舎という人が「見聞記憶の侭」と題して述べています。日本橋室町という一帯、商業金融界にとっていかに大きな地位を占めていたかが、うかがえます。

もちろん商業地として目ぬきの所です。金融業ばかりでなく、室町2丁目西側には瀬戸物町にあった「にんべん」などは伊勢商人を代表する鰹節問屋であり、日本橋川沿いには魚問屋も並んでいたので、この左右両町の地価は江戸で最も高い所といわれていたといいます。この辺り瀬戸物町とよばれた町は、江戸時代文字通り瀬戸物商の店が非常に多かったようです。旧本町1丁目は本石町に変り、旧本町2丁目が、室町2・3丁目に変りましたが。本町2丁目には江戸総町を支配する樽藤左衛門の屋敷があり、それだけでも、重きをなした町でした。

室町3丁目

室町3丁目も昭和7年9月の改正で、本町2丁目の北半と3丁目の西一部、十軒店町、金吹町の東半、本石町2丁目の南半、同3丁目の西一部を合併して出来た町で、室町2丁目と同様、三井系列の大会社の建物が占めているような町といってよいほどです。旧本石町2丁目には幕府菓子の御用達金沢丹後の店があって有名でした。江戸の菓子舗として大久保主水と並び称せられた店でした。

次に十軒店ですが、古くから、ここには雛人形を売る店があり、3月の雛の節句と5月の端午の節句の2回、2月下旬から3月3日まで、4月下旬から5月5日まで人形の市が立ち、大群集の雑踏で大いに賑わったことで有名です。

室町4丁目

室町4丁目といえば、昭和7年9月の大改正で、本銀町2丁目、3丁目の西一部本石町2丁目の北半、3丁目の西一部を合併して出来た町です。今は埋立てられてしまいましたが龍閑川に接した北部からこちらは、いずれも有数の商店街でした。中でも本石町2丁目にあった近江屋五郎兵衛は、土地を各地に16ヶ所も持ち、大地主として知られ、呉服問屋としては店員などを31人も置く大店として有名でした。

昔の本石町3丁目の角には有名なオランダ宿「長崎屋」があって、海外文化を江戸市民にもたらす唯一の窓の役割を果たす所として知られ、長崎から和蘭の商館長一行が江戸参府をする際の宿泊所でした。

この室町4丁目は、問屋街として知られた町ですが、蝋燭の著名な問屋がいくつかあったほか、神田今川橋よりは瀬戸物問屋がまとまってあるなど、いろいろな問屋の町でもあったようです。

本町1丁目

昭和7年9月、伊勢町の一部、瀬戸物町の東一部、東小田原町の東半、安針町東大部、本船町の東大部、それに長浜町の通路を合併して出来た町です。安針町などは家康入国前からあった江戸のみさきに当るなどの説もあり、ウイリアム・アダムスが拝領した土地として知られています。勿論後には魚市場になりました。江戸が賑やかになってからは、鳥問屋が多くあったといわれています。本小田原町は本町1丁目と室町1丁目にまたがった町になりましたが、初期の建設時代には石置場だったので本小田原町の名がついたといいます。勿論魚市場内でした。本船町も同様、両町に別れ、魚河岸の魚問屋で賑わった所でした。昔は堀留町の一部もここにあり、堀留川が流れていて、伊勢町も一部をなし、物資、特に乾物穀類がここに荷揚げされたなどの話もあり、江戸商業の中心をなしていたことはいうまでもないようです。

本町2丁目

昭和7年9月、伊勢町の北の大部と瀬戸物町の一部、大伝馬町1丁目の南一部堀留町1丁目、本町4丁目の南半、本町3丁目の南一部を合わせて出来た町ですので、まず大体は本町1丁目と似た江戸商業の中心地でした。

今でも、山之内製薬、三共ヨード、大日本製薬、田辺製薬など、ビルの林立した町ですが、江戸以来の薬品問屋の町で、薬の仕入にはここに来なくてはならなかったほどの町でした。関東大震災までは各店々の金看板のずらりと軒なみ続いた姿は、日本橋の一名物といわれました。

本町3丁目

昭和7年9月、本町3丁目の東一部と、4丁目の北半、大伝馬町1丁目の北大部、鉄砲町の南一部、本石町3丁目の南一部、同4丁目の南半、岩附町を合併して出来た町で、随分変化のあった町です。旧本町3丁目には江戸町方を総支配する町年寄の一人、喜多村の宅がありました。大伝馬町は朱印伝馬を勤める町として、何かにつけ江戸の町の筆頭として名主馬込勘解由と共に重要な地位を占めていました。この大伝馬町、1・2丁目とも木綿問屋が多く、南北両側とも、同業者のみで、木綿店とよばれ、伊勢商人の中心で、ただ一軒だけ伊勢屋源七という砂糖店があったのみという話です。

この辺は宝田えびす神社の恵比須講に、べったら市がたち、路上で浅漬の大根を売る年中行事が、今もなお続いています。

宝田恵比須神社は「商売繁昌、開運の神」として信仰が厚く、本尊は運慶作などともいわれ、家康が寄進したなどとの伝説もあり、古くからの神社として、大伝馬町の発展と共に厚く商家の人々に信仰されて来た話もあります。毎年江戸の商家では10月20日に「恵比須講」といって、恵比須神を大黒と共に祀り、鯛などを供えて祀る風習があり、それ等の供物を売る市が立ったといいます。

本町4丁目

3丁目の北の町で、昭和7年9月、本銀町3丁目東大部分と鉄砲町北半を合併して出来た町で、町北は龍閑川の河岸地であったが、今は埋めたてられてありません。昔は大伝馬町に属した地で、行徳から来る塩をこの河岸の入堀で陸あげして馬に積んだので岡附塩町などとよばれた時もあったといいます。鉄砲町は3丁目・4丁目に編入されてなくなりましたが、幕府の鉄砲師胝宗八郎の受領地として知られていました。旧本石町3丁目は、石町とよばれ、鐘撞新道にあった石町の鐘は時の鐘の第1号として有名で、辻源七が管理していました。今は十思公園内に保存されています。

(中央区文化財保護審議会会長 川崎房五郎)

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