日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋1〜3丁目

江戸時代は庶民の町々

江戸時代には、現在の日本橋1〜3丁目の地域は、商人の多く住む庶民の町でした。徳川家康が天正18年(1590)8月に江戸に入ると、関東8か国の大名の居城地として江戸は、日本橋地域から城下町の建設が進み、全国から商人や職人の集住する庶民の町として発展していきました。日本橋から西に通じる中央通りは、のちに東海道の出発地となる大通りで、現在の皇居(江戸城)の外濠と、東の楓川の運河に挟まれた日本橋地区は、特に近江や伊勢・三河の商人が来住して大商人や問屋の多くに商いする城下の中心地として活気を呈していきました。

江戸城下の中心地

現在の日本橋1丁目の地は、中央通り(日本橋通り)を中心に、通1〜4丁目、通1丁目新道、西河岸町、呉服町新道、元四日市町(活鯛屋敷・日本橋蔵屋敷)江戸橋広小路、本材木町1・2丁目、万町、青物町、平松町の一部、佐内町などの多くの町があり、江戸城下の中心として活気あふれる庶民の町でした。万町と青物町の間の南北の通りを中通りといいました。

日本橋は慶長9年(1604)に制定された五街道の起点として急速に諸国からの人々に往来で賑わい、中央通りの両側には大型の商店である呉服の白木屋をはじめ、両替屋や大問屋が進出し、堂々とした店構えの店が軒をつらね、江戸城下のみならず、日本経済の中心となっていきました。

日本橋1丁目北端の日本橋川には、日本橋と東に架かる江戸橋があり、川添の地は、日本橋蔵屋敷や四日市蔵地、江戸橋蔵屋敷があり、諸国から船で江戸に入る物産を納める白壁の蔵々が並んでいました。日本橋広小路には御肴役所もありました。

また、一心太助の話でも有名な魚河岸が日本橋のたもとの対岸にあり、江戸っ子気質の魚屋で大変な賑わいと活気をみせていました。

日本橋から西方の外濠の方には一石橋が架かり砥石河岸がありました。通1丁目と西河岸片町の小路を稲荷新道といい、西河岸町には、もと幕府の奥医師久志本家の屋敷神であった鹿児島稲荷が鎮座していました。

当町域の東にあたる楓川に面する地域は、中世には海岸部でしたが、江戸開府直後に櫛の歯の様に何本かの深い入堀が造成された所で、江戸城の築城用材木や石材を陸揚げしたところでしたが、寛永10年(1633)ごろにはいくつかが埋め立てられ、のちの元禄3年(1690)には、残りの入堀もついに姿を消し、音羽町小松町という町が成立しました。現在の日本橋3丁目南の地域にあたります。

町人と職人の住む町

日本橋2丁目の地域は、江戸時代には中央通りに沿って通2丁目、同3丁目があり、それに隣接して元大工町、数寄屋町、江戸橋広小路、本材木町3丁目、平松町の一部、佐内町の一部、新右衛門町、川瀬石町、南油町、小松町などの町々がありました。

通2丁目から西方の江戸城外濠方面に、元大工町新道への小路を十九文横町といい、つづいて樽新道が通じていました。

中央通りの左側には通2丁目新道があり、その南の小路を式部小路といい、江戸初期から幕府の奥医師を務めた久志本式部の拝領屋敷地があった所です。

当地域の南のうちの新右衛門町の辺りは、元禄年間(1688〜1704)までは、中央通りと直角に交差する道でした。外濠から東に伸びて楓川に至る東西の幅広い道で、広小路と呼ばれていました。元禄11年(1698)にその大通りを廃して、町場とし、新右衛門町、尾張町1丁目代地、数寄屋町のほか、道寿屋敷、三島屋敷といわれる町場になりました。江戸城下の人口増加による庶民居住地の拡大でした。

楓川から入り込んだ入堀

現在の日本橋3丁目の地域も、江戸時代の初めから庶民の町で、中央通り(日本橋通り)に沿って通4丁目、檜物町、上槙町、下槙町、福島町、本材木町4丁目、箔屋町、岩倉町、榑正町などがあり、大店のほか小売商店や職人が多く生活していました。

当町域の福島町の地は楓川から深く入り込む堀割でしたが、元禄3年(1690)にその入堀を埋めて福島町が成立しました。

諸国物産と職人の集中

江戸時代の日本橋通り(現、中央通り・国道15号)は、日本橋を起点とする5街道の第1、東海道の起点でもあったので、諸国との人々や物品交易の集中する繁華街となりました。全国への飛脚(通信制度)の元締をつとめた和泉屋甚兵衛が佐内町に、大坂屋茂兵衛が元四日市町で業務を行っていました。

これらの物品の流通と日本橋川の水運によって通1〜4丁目には、1丁目の紙問屋の須原屋、墨の古梅園や畳表など大問屋が32軒も集中していました。4丁目の雁皮紙問屋須原屋佐介(金花堂)ほか問屋七軒が大型店鋪を構えていました。その周辺の町々には、それら諸国の物産を材料にして商品を製造する職人も多く住み、数寄屋町の乗物・表具・茶道具・箔屋町の金銀箔、檜物町に金銀細工・家具などを扱う店や問屋が集中しておりました。本材木町、南油町も問屋街として商業の町であったのです。

江戸文化を代表する書籍や絵草子・浮世絵などの刷物の生産も多く、通1丁目の須原屋は幕府公認の江戸切絵図や「武鑑」(大名・旗本・御用商人等の名簿)を発行発売をして有名な大店でした。南油町の浄瑠璃本の版元鶴屋喜右衛門も絵草子で知られていました。これらの文化の流れを受けて、明治時代に入っても当地域には本屋や新聞・出版等の企業が発展するもととなりました。現在も紙問屋や印刷関係の企業が多いのもそのためなのです。

日本橋川の河口部にあたる楓川に沿った本材木町の河岸場には多くの蔵屋敷が並び諸国物品が集積されていました。久新河岸には肴棚(魚市場)があり、毎朝、魚市場が開かれて、賑わっていました。

江戸時代の有名店鋪

現在の中央通り(旧、通1〜4丁目)には、江戸時代からの有名店鋪が多く、大通りに面した通1丁目西側に醤油問屋の大国屋勘兵衛、その南隣には塗り物の黒江屋太兵衛、切り絵図の版元の須原屋茂兵衛、その向かいの東側には荒物問屋の近江屋甚五郎、同庄右衛門、同伝右衛門の3店が並び、その南には呉服商の白木屋彦太郎、通2丁目には西側に白粉の柳屋五郎三郎、東側に荒物の大文字屋利右衛門、茶の山本屋喜兵衛、通4丁目には西側に水油の駿河屋長兵衛、荒物の大文字屋正六、東側には荒物の近江屋甚五郎などが知られていました。

これらの大店には度重なる火災の対応として土蔵造りの防火建築とし、江戸後期には白壁を黒塗りにしたため大通りは全く黒色の街となって明治維新を迎えました。

なお、日本橋川には日本橋と江戸橋、楓川には海賊橋と中の橋(新場橋)が架かっており、日本橋によって日本橋室町、江戸橋で人形町方面、海賊橋と中の橋で八丁掘方面と結ばれていました。

明治維新と日本橋

明治元年(1868)に江戸は東京となり、幕府・大名や旗本が消滅したために、これらの大消費相手を失った御用商人や御用職人は大打撃を受けて店を閉める者もありました。やがて、新政府の首都として東京が日本経済の中心になると、大店の人々も努力しながら近代化経営に乗り出し、再び商業の町として復活していったのです。

近代文明の発端となる郵便制度も江戸橋橋詰に設置された郵便局が置かれて、のちの日本橋郵便局に発展しますし、人力車の元締の要助は箔屋町に開業して発展しています。のちの市電に発展する鉄道馬車が明治15年(1882)に新橋〜日本橋間に開通し、その線路を同36年に市電が開通しています。その市電は、その後、日本橋を中心にして品川、上野、三田、新宿、深川、青山の各方面に路線を伸ばし、日本橋周辺の大型企業の発展と、それへの通勤客が増加してきたこともあって、明治末〜大正時代には主要交通となりました。特に関東大震災後、東京郊外に移転した人々も日本橋に群集し、近代的企業の集まるビジネス街へと変容していきました。木橋であった日本橋は帝都のメインシンボルとして明治44年(1911)石造橋に改架され、現在に至っています。

昭和通りの開通と地下鉄の開業

大正11年(1923)の関東大震災によって当町域も大きな被害を受け、江戸時代以来の木造建築が消滅していきました。しかし、その後の復興も早く、郊外電車の発達と市電、市バスの発展などで日本橋周辺に集中した証券、金融、デパートなどへの通勤客や買物客が益々増加して、昭和に入った頃には、日本経済の中心地として完全に復興したのでした。

これらの人々の集中によって交通も自動車の普及などで、道路状況が悪くなりました。平行して、国や東京市が計画した震災復興計画によって、昭和初期に江戸橋から南下する中通りで新橋に至る幅広い昭和通りを完成。昭和7年(1932)には渋谷〜浅草間に、地下鉄銀座線が開通し、日本橋駅が開業しました。その後、地下鉄は昭和40年代には銀座線に交差して営団地下鉄東西線、ついで都営地下鉄三田線が南北に開通し、交通は益々便利になりました。

敗戦と復興

昭和10年代には、完全に復興なった日本橋地区は、商業の町から金融やデパートなどを中心とする一大ビジネス街に復興しましたが、日中戦争の始まるころから戦時色が濃くなり、商店やデパートからぜいたく品が消えていきました。昭和20年(1945)には3月10日の空襲を受けて日本橋地区は全滅の被害を受け、焼け野原に白木屋などのビルがポツリ、ポツリと残る全くの原野になってしまいました。

進駐してきた米軍は焼け残ったビルを接収し、白木屋は米軍のPX(購買部)になりました。

それでも新生日本の中心として当地域の戦後の復興は早く、朝鮮戦争による戦後経済の復興で日本橋の金融業や企業は昭和30年ごろには全く復興し、昭和40年ごろには接収解除を受けた白木屋(のちの東急百貨店日本橋店)や高島屋もデパートとして活動することになり、戦前の活気を取り戻して発展しています。

平成12年(2000)2月には日本橋架橋88周年を記念して大イベントを開催し将来の日本橋の町の発展を企画して、今後の町づくりに住民も大きな期待を寄せています。

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