日本橋“町”物語日本橋“町”物語

日本橋大伝馬町

大伝馬町の成立

中央区の北西部にあたり、日本橋の北西約600メートルに位置しています。北から西に細長い町で、中央を南北に人形町通りが貫通し、営団地下鉄日比谷線の小伝馬町駅の南側の一帯にあります。

大伝馬町という町名の成立は古く、江戸開府のころには、現在の千代田区にある皇居の呉服橋の辺りにありました、伝馬とは馬の背に荷物を積んで、宿から宿に送る制度をいいます。その役所が江戸城の呉服橋門内にあったために町名となったのです。

慶長11年(1606)に隅田川河口の浜町一帯の海兵の埋立てが完了した後に、現在地に大伝馬町は移転しました。当時は西から東へ大伝馬町1〜2丁目があり次いで通旅籠町、さらに通油町が続いていました。伝馬役を務める馬込勘解由も旧大伝馬町2丁目の北側に屋敷地を拝領し、伝馬役と町名主を世襲で務めました。

木綿問屋の発祥

馬込氏は三河(愛知県)の出身で、その配下の町民が三河木綿の売買に、町内で木綿問屋を開店し、これが後に、大伝馬町の木綿店と呼ばれる木綿問屋街を形成し、近年まで繁栄する基を築いたと伝えています。馬込邸内に宝田稲荷があり、現在も神社として残っています。とくに旧大伝馬町1丁目にあった木綿問屋小津清左衛門は大店として有名でした。

旧大伝馬町2丁目にあった俚俗地名の肴店は、昔、毎年正月10日に魚市が開催された場所といわれています。

通旅籠町と日光例幣使

現在は当町域に入っている通旅籠町は、江戸初期からあり、当時の『寛永江戸図』には「大伝馬3丁目」と記されています。いつ通旅籠町として独立したのかはわかりませんが、奥州街道に沿った町場で、旅籠が並んでいたために、起こった町名です。町内の南新道に面して池洲稲荷神社があり、日光(栃木県)の東照宮の祭礼に、朝廷から例弊使としてつかわされる勅使の宿泊所になった当町の警護用の武具を収蔵する土蔵が境内に設けられていました。

大伝馬町の南側の裏通りを「大丸新道」と呼び、江戸時代には下村正右衛門の経営する木綿問屋の大丸の店が、その繁栄を天下に誇っていました。また、北側の表通りを菊新道と呼んでいました。

通油町の様相

旧大伝馬町3丁目の地は、江戸時代には通油町といわれた町でした。大伝馬町・旅籠町・馬喰町に囲まれた町で、明治初年の編集になる『東京府志料』の記事に『本町書上』を引用して、当町は、江戸初期の慶長年間(1596〜1615)の起立になり、元和年間(1615〜24)に牛込某という人が油店を開いたことから、町名となったと記しています。

江戸中期の元禄年間(1688〜1704)には、浄瑠璃本を扱う本屋の鱗形屋が有名で、天明年間(1781〜89)でも油町は紅絵で名を馳せていました。

大伝馬町の繁栄

町の東には堀割の浜町川が流れ、江戸湾(東京湾)からの船による物資搬入の便が良く、大伝馬町1〜2丁目一帯には、問屋や大店が軒を並べ、宝永2年(1705)には問屋だけで55店も集中していました。木綿や布地を手広く扱い、木綿店と呼ばれて町は繁栄し、その賑わいは『江戸名所図会』にも活き活きと描かれています。

扱う商品は、綿花・木綿地・太物類、それの加工品等でしたが、のちに反物・呉服地、特に和服の裏地が主流になりました。

幕末のころには毎年1月と10月の恵比寿講の日には宝田神社(日本橋本町)から大伝馬町1丁目に至る通りで漬物「べったら市」が開催され、現在は10月19日・20日の縁日に行われて賑わっています。

問屋の繁栄の基となった掘割である浜町川は、江戸初期の寛永年間(1624〜44)に開削されていましたが、元禄4年(1691)に拡張して延長され、西緑河岸という河岸場があり、千鳥橋や問屋橋が架橋されていました。

江戸末期の産業

南新道には、日用雑貨を扱う十組問屋加盟の土蔵造りの大店が軒を並べ、書籍・刷物・版木物・鼈甲・化粧料・茶・竹細工・文具・灯火用具・釘鉄銅物などあらゆる生活洋品の製造卸を行っていました。江戸暦や千代絵を売った仙鶴堂鶴屋喜右衛門や、群玉堂松本善兵衛、松茂堂浜松屋幸助など刷物屋が有名でした。通旅籠町には文具・紙類・傘・小間物類の問屋が集中しています。

しかし、当時の問屋街でも、一大特色は前にも述べましたが、大伝馬町1・2丁目の木綿問屋街で、江戸後期の『江戸買物独案内』では、木綿問屋だけで22店と見えています。

大伝馬町2丁目は薬種のほか、文具・煙草・煙管などを扱う問屋も目立っており3丁目には宝飾品や鼈甲、象牙細工などの問屋がありました。2丁目と3丁目の境に大門通りが通り、金物を扱う問屋が多く、現在に至っています。

明治時代の賑わい

明治年間に入っても大伝馬町の繁栄は続きました。明治15年(1882)には日本橋室町から本町通りを通り、大伝馬町を抜ける通りが主要道路で、この道に日本橋からの鉄道馬車が開通しました。

通旅籠町の大丸も鉄道馬車に面して、ますます繁栄していきました。

ところが、明治37年(1904)に日本橋室町から小伝馬町の大通りを電気鉄道(後の市電・都電)が開通して鉄道馬車が廃止されると、大伝馬町の通りから小伝馬町側に繁栄は移っていきました。

大正年間(1912〜26)の大伝馬町の様子を記した紺野浦二著『大伝馬町』によれば、大伝馬町通りには、1丁目に江戸時代から木綿と紙を扱う大問屋の小津商店が続いており、長谷川や田端などの木綿大問屋も営業を続けていました。

震災と戦災

そこに起こったのが関東大震災でした。大正12年(1923)9月1日の大震災で、日本橋本町からの火災が午後3時ごろに大伝馬町1丁目に燃え移り、全町域に燃え広がって、ついに、1〜2丁目まで全焼してしまいました。これ以前の大正9年の絹の暴落で痛手を受けていた当時の木綿問屋は、大震災の被害で更なる打撃を受けてしまいました。その後、復興したものの、昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲で再び全焼し、木綿問屋の町は、その永い歴史に終止符を打ったのです。

昭和7年(1932)9月、日本橋区は、区割り整理と町名改正を行い、大伝馬町1丁目が本町2・3丁目の内になり、同年12月に旧大伝馬町2丁目が大伝馬1丁目と改称されました。同時に通旅籠町も大伝馬町2丁目の内に編入、合併され、昭和22年(1947)に日本橋大伝馬町1・2丁目と改称。また、昭和7年12月、通油町の全域及び元浜町の北一部、西緑河岸の一部を合併して大伝馬3丁目が成立し、同22年に日本橋大伝馬町1〜3丁目となりました。ついで同55年1月に日本橋大伝馬町1〜3丁目が合併して日本橋大伝馬町となり現在に至っています。

戦後の世相

焼け野原からの復興は大変な苦労と努力を必要としましたが、木綿問屋の伝統を継いで、繊維問屋が復興しました。江戸時代からの伝統を持つ、宝田神社前の通りで開かれているべったら市も復活し、昭和40年ごろからは、水天宮の祭礼にも人々が出て賑わいを見せています。

昭和44年(1969)10月、神田岩本町(千代田区)から小伝馬町を通り、水天宮前に至る21系統の都電は廃止となりましたが、営団地下鉄日比谷線が昭和39年(1964)に人形町通りに沿って開通したため、小伝馬町駅が開設され、人々の往来もさらに多く、水天宮の祭礼の夕方などには、大変な人出で賑わっています。

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